仄甘い感情
9
もう、隣の芝生が青く見える事もなくなった。自分の芝生がどこよりも手入れの行き届いた素晴らしいものだから――。




「尚嗣お兄ちゃん、起きて~」
「朝だよ、お兄ちゃん!お姉ちゃんがご飯待ってる~」

啓太と百合に揺さぶられて、尚嗣はゆっくりと二人を見た。

「…ぁあ…おはよう、二人共…」
「おはよ~」
「おはよっ」

朝も二人が騒がしく起こしてくれる。隣にはすでに温もりはなく、寝室を出てリビングに踏み出せば、そこは暖かい朝の光で満ちていた。
ダイニングテーブルにはテーブルクロスが掛けられ、四人分の食器が並ぶ。

「おはよう、絢女」
「おはよ、尚嗣さん」

柔らかい笑顔で絢女に迎えられ、四人揃って朝食をとる。

尚嗣と絢女は啓太と百合を見送ってから、二人揃って出社する。
退勤後は二人で買い物に行き、夕飯や明日の朝食の話をしながらスーパーマーケット内を二人で、スーツ姿で回り、自宅へと帰る。
尚嗣も漸く売場を覚えたところだ。

自宅には啓太と百合がいて、出迎えながら買い物荷物を受け取ると、片付けを始めてくれる。
二人が着替え終える頃には、夕飯の準備が始まっている。夕飯のメニューは一週間ごとに決めるのが神崎家流。メニュー会議には尚嗣も参加している。

そんな生活に、尚嗣は温もりを感じていた。生活感がなく、明かりのない寂しげな自宅マンションが、今では光に溢れた温かさをもっている。




そんな尚嗣の生活を知った尚嗣の両親が、不意に揃って自宅を訪れた。

「…急になんなんだ」
「そう嫌そうな顔をするな、尚嗣」
「夕飯時なんて小忙しい時間見計らった辺りが迷惑だ」

スーツからラフなチノパンとシャツに着替えた尚嗣は、行く手を阻むように玄関で仁王立ちだ。
しかも腕まくりをした息子を見るのは初めてで、両親は揃って驚いた。

「何の用だ」

憮然とした様相は、両親に対して不機嫌全開だ。

「勇矢君から、お前が同棲していると聞いてな」
「だから相手の品定めか…帰れ」

相変わらず不機嫌な尚嗣は、昔から両親に対しての振る舞いは変わっていない。本当の不自由を知ってしまったからだ。

「品定めのつもりはないのよ、尚嗣。勇矢君から素晴らしい女性だって、散々聞かされたもの」
「彼が言うのだから間違いはない。その上、将来の約束もしているそうじゃないか…なら尚更会わせてもらいたくてな」
「………」

尚嗣が疑いの眼を向けていると、シャツの裾を引かれた。

「尚嗣お兄ちゃん」
「百合…」

一瞬にして穏やかな表情を見せた尚嗣に、両親は驚いて少女を見た。

「お姉ちゃんが今からならまだ大丈夫だし、ご飯どうですか…って」
「お嬢ちゃん、お名前と歳は?」

尚嗣の父が百合の前にしゃがみ込む。

「神崎百合、小学三年生です。初めまして」
「そうかい、ちゃんと挨拶出来るのは偉いね」

そんなやり取りを眺めていた尚嗣は、溜息をついた。

「百合、絢女に頼んできてくれるか?」
「はぁい」

百合の返事を聞いた尚嗣は、両親に向き直る。

「…上がってくれ。用意されたものにケチは付けられないだろうからな」

尚嗣の後に付いてリビングに向かうと、対面キッチンでは三人が楽しげに準備をしていた。

「絢女、俺の両親だ」
「あ…こんなところからで申し訳ありません」
「いいえ、突然来たこちらが悪かったの」
「神崎絢女と申します」
「神崎啓太です」

百合にしても、よく似た兄弟だと思った。

「啓太、椅子をあと二脚用意してくれ」
「はい」
「そっちに座ってくれ、もうすぐ出来る」

ダイニングのテーブルに席を勧めると、当たり前のように尚嗣もキッチンに入る。
そんな様子を両親は驚きと共に見つめていたが、二人で何事か話しながら互いに作業して笑い合う姿には、更に驚いた。
百合がランチョンマットを尚嗣の両親の前に敷くと、啓太は椅子を用意し終えて、食器棚から追加の食器や箸を出し、ランチョンマットの上に並べた。
尚嗣がテーブルの中央に鍋を置くと、絢女はトレイに野菜や肉を乗せて持って来た。

「初めて俺の舌を唸らせた鍋だ」

啓太と百合は手を合わせて、いただきますと、元気に口にする。
今夜のメニューは尚嗣お気に入りの、スライスした大根で具材を包んで食べるものだ。
尚嗣自ら両親に取り分けてやると、母がまず箸に手を伸ばした。尚嗣の両親もこんな鍋は初めてだった。

「…あら…美味しい…」

妻の言葉に口にした父も驚いたようだ。

「俺の舌を唸らせたと言っただろう?締めの雑炊はまた格別だ」

家庭料理を頬張る息子など、見た事がなかった。啓太や百合に取り分けてやる姿も、想像した事すらない。穏やかな笑顔を見せながら、食事を楽しんでいる。
次第に尚嗣の両親も、食事を楽しみ始めていた。こんなに楽しげな食卓は何十年…いや、記憶にすらない。

「今日のは百合が卵担当な」
「はぁい!お兄ちゃんがご飯ね」

鍋の具材がなくなると、啓太と百合が席を立ってキッチンへ向かった。

「任せていいのか?」

父が口を開いた。

「ああ見えて料理上手だからな」
「小さいのにお姉さん思いなのね」
「…私が…あまりしてあげられませんでしたから…自然に覚えてくれたんです」
「それはお前が悪いわけじゃない」

寂しげに苦笑いする絢女を、尚嗣は直ぐさまフォローした。絢女や神崎家については事前に調べを入れた。彼女らの両親についてもだ。
だから尚嗣が同情して付き合っているのではないかと勘繰ってもいた。だが尚嗣が見せたのは、同じ情でも【同情】の方ではなく、間違いない【愛情】だった。

「焦がすなよ、啓太」
「尚嗣お兄ちゃんとは違うよ~♪」
「言ったな?」
「尚嗣お兄ちゃんは、お姉ちゃんとお喋りしすぎたからだよね~」

二人に茶化されても、笑っている尚嗣は本当に穏やかで、見た事がないほどに幸せそうだった。
啓太と百合が仕上げた雑炊は尚嗣が言った通り、格別だった。

食後には、またみんなで片付けが始まる。今日は啓太と百合が食器洗いの当番になっている。
絢女はその間に翌日の二人のおやつの準備だ。

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