仄甘い感情
3
絢女のスーツは定時前には社に届けられ、一着は着替え用、残りは自宅へ持ち帰る事になった。

「神崎さん、荷物が多いですから送りますよ」
「え?これくらい平気ですよ。歩いて十分くらいですし」
「今日は時間も時間ですからね、何か遭ってからでは遅いですし」

長谷部と絢女の押し問答は更に続く。尚嗣はその様子にまた片眉を吊り上げた。

「あ…」
「グダグダ言うな。付いてこい」

絢女から荷物を取り上げると、さっさと社長室を出て行った。

「あ~…じ、じゃあ長谷部さん…」
「社長が送るなら僕も安心ですね。ではまた月曜に」
「はい、お先に失礼します」

絢女は慌てて尚嗣を追った。

「全く…どういう風の吹き回しだか…」

二人が消えた社長室で、長谷部は溜息混じりに呟くと、全ての施錠を確認し、社長室の鍵を閉め、セキュリティーを始動させた。




「…遅い」
「すいません…てか社長がさっさと行っちゃうからじゃないですか」

思わず尚嗣に謝っておきながら、ハッとして言い返す。
地下駐車場に向かうエレベータ内で、二人の会話はまるで社長とその秘書には聞こえない。

帰りは有名な国産車だった。ムルシエラゴのように走る車ではないのでシートもゆったりして座りやすい。
静かなエンジン音で走り出したが、不意に絢女が声を上げた。

「あ!」
「な…なんだっ」
「夕飯の買い物しなきゃいけないから、やっぱり降ろして下さい!」
「脅かすな」

絢女が声を上げたので、尚嗣は思わず急ブレーキを踏んだ。続いた言葉に拍子抜けして、またゆっくりアクセルを踏み込む。

「寄ってやる、どこに行けばいい?」
「え…じゃあ…」

絢女は近くにあるショッピングセンターを案内した。


「………」

てっきり尚嗣は車で待っているのかと思ってみれば、しっかり絢女の後を付いてくる。スーツ姿の男女は目立つのか、ちらちらと視線を感じていた。

「…退屈じゃないんですか?」
「何がだ?」

「食料品売場とか、絶対入らなさそう」
「あぁ、初めて立ち入るな。うちは男子厨房に…の家系だからな」
「…やっぱり」
「何だ」
「カトラリー以外持った事なさそう」
「当たりだ」

容貌見たままだと思いながら、絢女は葉付き大根を一本籠に入れた。しめじ、えのき、にんじん、水菜、白ねぎ、木綿豆腐…籠には鍋の材料が豊富に入っている。

「草ものばかりで何を作る気だ?」
「草って…大根で食べるしゃぶしゃぶみたいなものです」
「…大根の…しゃぶしゃぶ?」

尚嗣は神崎家がそれ程に貧窮した生活を送っているのかと不憫に思い、食事に連れていってやろうかと口にしようとした。

「よかったら食べて行きませんか?」

しゃぶしゃぶ用の豚肉を籠に入れながら絢女が振り返った。

「たまには胃に優しいものでも食べないと、将来メタボ中年になりますよ?」
「………」

気遣いなのだろうが気遣いに聞こえない嫌な台詞にも関わらず、尚嗣は無意識に是と返事をしていた。

「尚嗣お兄ちゃんだ!」

啓太と百合は尚嗣の姿を見るや、満面の笑みで飛びついた。軽々二人を両腕に抱えると、二人は更に喜んだ。
絢女の自宅はいつも不思議な雰囲気だ。
尚嗣には覚えのない暖かさがある。一頻り尚嗣の歓迎が終わると、二人は絢女の手伝いを始めた。
テーブルと鍋の用意を啓太がする。百合は絢女と食材の準備だ。
食器を出し終えた啓太はピーラーを手に皮を剥いた大根を更にピーラーで剥いていく。

「尚嗣お兄ちゃんも一緒にやろ?」

もう一つピーラーを持ち出すと、尚嗣に手渡す。啓太に教わりながら見よう見真似で初めての調理器具を手にした。
スーツの上着を脱いで、袖を捲る。それがやけに楽しかったのだ。


大根の薄切りで他の具材を包んで食べるそれは、予想外に旨いと感じた。それ以前に鍋を誰かと共有してつつくのが初めてだ。
料亭では仲居が付いて、取り分けてくれる。神崎家は自分で欲しいだけ取り分ける…それすら暖かい。

その後の雑炊もかなり旨かった。舌の肥えた尚嗣ですら、満足をさせてしまった。

食後には絢女がコーヒーを淹れて、啓太と百合は食器洗いをした。そんな光景も暖かい。

「どうでしたか?草もの鍋」
「…予想外だ」
「初めて手にした調理器具も?」
「そう…だな」

肩の力が自然に抜けていく…ふわふわと疲労感が浮き上がってくる感覚は初めての事。
キッチンからかちゃかちゃと食器を洗う音、啓太と百合の楽しげな声を聞きながら、尚嗣はふわりふわりと目を閉じた――。







ふ…と、意識が浮上して感じたのは柔らかい香り…暖かい雰囲気。

「……!?」

躯を起こすとそこは神崎家のリビングにあるソファだった。

「おはようございます。よく眠ってたしジャケットの携帯も鳴らなかったから、起こさなかったけど…何か急ぎの案件ありました?」

躯は暖かな毛布で包まれていたし、ソファの肘当てにも厚手のバスタオルが掛けられていたせいで、寝心地はそれなりだった。

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