仄甘い感情
4
緑地公園でバドミントンをして弁当を食べた。尚嗣にはどちらも初めての体験だ。
その日の夜、啓太と百合に惜しまれながら、尚嗣は自宅へ帰った。
このところ自宅マンションのこの雰囲気を、やけに物寂しく感じている自分がいる。それは間違いなく、絢女の自宅の空気を知ってしまったからだ。
一人で明かりを点けて、自分のいないところには明かりはない。当たり前の事なのに、それが冷たくて仕方ない。
絢女の自宅は常に暖かい空気で満たされている。電化製品だけではどうしたって敵わない暖かさだ。
自分にも何かを寂しいと思う感情があったのかと、今更ながら尚嗣は思い知らされた。

日曜――いつも通りに生活してみても、やはり物足りなさを感じる。絢女は今頃、何をしているのか…そんな事ばかり考えてしまう。
誰かにこんな執着をした覚えはない。今、付き合っている事になっている女に対してですら、今頃何をしているかなどと思った事はないと言うのに……。

「前島さん」
「…急に呼び出して済まなかったな」
「いいの。前島さんから連絡をくれるなんて嬉しい」

取引先の常務の娘…付き合って二ヶ月ほどだろうか。さほど興味もないが、勧められて食事に行くようになった。会うのは週に一回程度で、きちんと付き合うかどうかは追々返事をすると言ってある。
だから今日…その返事をする。

「以前言っていた返事だが…」
「ええ」
「やはり君とはそう言った関係にはなれない」
「え…?どう、して?」
「まだまだ仕事も忙しい…それに私にそんな余裕がなくてね。毎週こうして食事にと時間を取る事を義務のように感じてしまっている。付き合うようになってしまえば、私はそれを息苦しく感じるだろう…長続きはしない」
「そんな…私、待ちますから!」
「待たれる事すら重荷に感じているんだ…理解してくれ」

尚嗣は内心舌打ちしながらも、営業用の面を向けていた。

「私は…私の面子はどうなるんですかっ」
「私の一方的な身勝手だと言い触れてくれて構わない。常務には私から謝罪する」
「そう言う問題ではありません!もし…取引に影響が…」
「…ほぅ…?私を脅すおつもりですか?」

ぎらりとした視線を向ける。相手の女はハッとしたがもう遅かった。
すぐに携帯を取り出して電話をする。

「前島商事の前島です、岩井常務を」
「っ、前島さん!」
「お久しぶりです、常務…ええ、今ご一緒させて頂いているんですが……いえ、お断りしたんです。私に余裕がありませんから……それでお嬢さんから、取引に影響がと脅されましてね…お宅との取引自体を止める事にしました。秘書から連絡があるかと思います」

相手の言葉も聞かずに電話を切った。

「では…失礼しますよ」


待ち合わせていた店を出るとすぐ、長谷部に連絡をした。

『仕方ありませんね。そんな事をしなければ尚嗣を繋ぎ止められない女なら、時間を掛ける価値もない』
「…普段の言動には似つかわしくない口振りだな」
『私はリアリストですからね。尚嗣はエゴイストで、神崎さんは…』
「神崎?」
『彼女はナチュラリストですね。自然体で暖かみがある』
「…そう、だな」

ふわりと笑う姿が過ぎる。あの家も酷く休まる気がして。

『尚嗣が誰かに執着するのを見たのは初めてですよ』
「そうか」
『白沢工業の件はすぐに手を打ちます。代打は榛マシナリーでいいですね?』
「一度打ち合わせが必要だがな」
『先方には連絡をして、営業を向かわせます』
「あぁ」

愛車のシートに深く凭れて溜息を付く。ふわりふわりと疲労感が漣のように寄せては返す。
そんな中、ふと絢女を思い出した。

「…ナチュラリスト、か…確かにな…」

絢女を秘書に引き込んだのは正解だった。今まで尚嗣に必要であるにも関わらず、見つからなかった心身の癒し…絢女は存在そのものが尚嗣にとって穏やかなものだ。
その弟妹も尚嗣は気に入っていた。容姿や経済的背景を目当てにでなく、純粋に慕ってくれているのがわかる。
無性に何かをしてやりたくなる。

「…土産でも買ってやるか」

不意に呟くと、尚嗣はエンジンを掛けてアクセルを踏み込む。車は近くにあったデパートの駐車場に滑り込んだ。

それから一時間ばかり悩んだ尚嗣は、土産を手に神崎家へと向かった。







「ありがと!」
「ありがと、尚嗣お兄ちゃん!」
「わざわざすいません」

玄関先で大歓迎を受けた後、尚嗣はリビングに引っ張り込まれた。父親の見舞いに行っていたらしく、少し遅い夕食の用意をしていた。タイミング良く夕食にありついて、食後には早速土産で遊ぶ事になった。
ボードゲームの定番、人生ゲームだ。

「いいなぁ、尚嗣お兄ちゃん」
「俺は運がいいからな」

尚嗣は油田を堀り当てたところで、ダントツのトップ。たかが…とは思っていたが、予想外に楽しめた。

「また尚嗣お兄ちゃんだし~」
「ズルいよぉ」
「俺は現役の社長だぞ?小学生には負けん」

ついムキにもなってしまう。絢女は弟妹と尚嗣を穏やかに見つめていた。

絢女は尚嗣を自然と受け入れていた。不思議に思いはしたが、尚嗣に嫌悪や遠慮を感じない。
企業の社長であるにも関わらず、こうして子供と一緒になって笑える尚嗣は、噂に聞いていた男には見えないのだ。
これだけの容貌や経済的余裕を持ちながらも、二回りも下の子供たちと遊んでやれる。
勧めたものも嫌な顔も素振りもみせずに受け入れてしまう…絢女の中で尚嗣は今や優しい男で。
仕事にも手を抜かず、書類も端から端まできっちり確認し、秘書や担当任せにせず、気になれば自ら足を運んで確かめて、徹底的に突き詰める。

そんな尚嗣を公私に渡り見るようになってから、絢女の中での評価も鰻登りだ。
社長としても男としても…尚嗣ほどに魅力的な男を絢女は知らない。
違う世界に生きている別の生き物のようにも感じていたが、時間を共有する事が増えてからは、無意識に尚嗣を心配するようになっていた。
疲れを感じれば、それを少しでも取り除いてやれたら…と。

「尚嗣お兄ちゃん、今日は?お泊まりしてく?」
「明日は仕事だからな、今日は帰るよ」
「また来てくれる?」
「ああ。それに明後日からはまた一緒だろ?」
「うん!楽しみ!」
「尚嗣お兄ちゃんと沖縄だもんね!」

無邪気な二人に引き止められると留まりたくなってしまう。この居心地のよい空間に…依存に近いものを感じてしまう。

「ありがとうございました、いつもすいません」
「気にするな。啓太と百合は俺からしても可愛いからな」
「社長にはすごく懐いてますから」

見送りにと出て来た絢女と、駐車場までの短い道のりをゆっくりと歩く。こんな時間ですら終わる事が名残惜しい。

「じゃあ…また明日」
「ああ」

愛車の側で立ち止まり、向き合う。このまま離れる事に抵抗を覚えていた。

「…社長?」

車に乗ろうとしない尚嗣に、絢女が顔を覗き込むようにして声を掛けた。
どこか心配するような視線が、そっと尚嗣を包む。

「…おやすみ」

不意に尚嗣が絢女を引き寄せた。腕に伝わる温もりを迷わず強く抱き寄せて、耳元に囁く。

「おやすみ…絢女」

ふわりと唇に触れて、尚嗣は愛車に乗り込むとアクセルを踏んだ。

ぼんやりとそれを見送った絢女は暫くして、我に返った。

「っ……な、に?絢女、って……しかも…///」

抱き締められて…キスされたその事実に気付いてしまい、赤面したまま動けなくなった――。
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