徹底的にクールな男達
シングルベッドの狭い囲いの中で、頭が柵に閊(つか)えるほどの武之内とその隣で腕枕された麻見は、ただ静かに暗い中でお互いの存在を見つめ合っていた。
「麻見……。って結婚するのに苗字で呼ぶのも変か」
ひょっとしたら、下の名前を知らないかもしれない、と思う。のに、
「依子」
覚えていた。
「…………、名前……知ってたんですか」
「はあ!?」
聞いたこともない素の声に、麻見は少し驚いた。
「知らないわけないでしょ!? 一体どう思われてんの、俺」
「だって……呼ばれた事なかったし」
「知ってるよ」
「でも、沙依吏のことは名前で呼んでましたよね?」
「呼んでないよ。社員は全員苗字で徹底してるから、それはない」
「……そう……でしたか……」
「うん……依子……。色々あるけど、自分がどうしたいのかはっきりさせておかないといけない。仕事はどうする?」
色々飛び越えて、いきなり名前を呼ばれて将来の話をされても、自分が考えていることが何なのかも全く分からなくなってしまう。
「えっとえっと…………、産休、ですか?」
「うちの会社は産休は出産40日前になってからだ。それまでは妊婦で働いてるよ。けど、原則夫婦が同じ店舗では働けない。どちらかが異動になるよ」
「……どうしよう……」
なんだか急に上司の顔になった気がして、少し腰を引いた。
「まあ」
だが、それも許すまいと腰に腕を絡めて引き寄せられる。
「後々のことを考えると産休で休んで、育休とって、働けるようになったら働いたらいいし。そういう環境は整ってるよ」
色々、特に腰に手が回されたのが気になって、気になって、仕事の話どころではない。
「……あの、ちょっと聞きたいんですけど」
とにかく、話を別の所に移そうと、腰の位置をずらしながら聞く。
「何で今まで結婚しなかったんですか?」
「そんな事聞いて、どうするの?」
言いながら、腰の手に少し力が入ったのが分かる。しかし、声は笑っていた。
「いや……何で独身なんだろうとは思ってました。だって年も35とかですよね?」
「36歳、誕生日は7月20日」
「あ、はい」
数字を並べられ、覚えておかなければという緊張感が走る中、武之内は腕枕をしている方の手で、静かに依子の髪の毛を撫でた。
「何でって……なあ……、これといって結婚したいと思うような事がなかったからかな。うん、それに尽きる」
「……好きな人とかいなかったんですか?」
「いなかったよ」
「最後に彼女がいたのっていつですか?」
「まあまあ、そんな根ほり葉ほり聞かなくても」
わりと大切な事なのになと、思う。
「ここ最近は仕事に明け暮れてたよ。初めての会社で責任者やらせてもらってからはね。毎日くたくただった」
どうしよう。何で髪に触れてくるのか、気になって仕方ない。
毎日くたくたって、家でどんな風に過ごしているのかも全く想像がつかない。
「…………結婚、するんですか? 本当に結婚するんですか!?」
「……、今全然違う話してたと思うんだけど」
「…………だって、なんか不安になってきて」
触れられるのがちょっと怖くて頭をもぞもぞさせてしまう。
「どうすればいいのか……」
麻見は空いた手で自らの唇をなんとなく触った。
「本当に結婚なんて……」
「大丈夫、大丈夫」
その手を完全に取られたと同時に顔が近付いてくるのが分かる。
「ほ、ほんとに生まれてくるかどうかも分からないし」
抵抗のつもりで声を出したが、
「妊娠してるんなら生まれるよ」
簡単に唇を奪われてしまう。だけどそれを無視して。
「そ、そうかもしれないけど! そんな……そんな単純な事じゃないような気がする……」
「まあまあ、そう心配しなくても。分からないことがあれば病院で聞けばいいし」
「…………」
そういう問題じゃない気がする……。
「早めに籍は入れておこう。何かあるといけないし」
「何かって、なんですか」
不安に不安が重なって、声が低くなる。
「いや、何か、は分からないけど。子供がお腹にいるのに未婚っていうのもおかしいし」
「…………」
でもそれは、全て、全て、あなたのせいなんですけど。
「親は反対しそう?」
「いや……。別に。わりと喜ぶ気がします。武之内店長が……普通の人だから」
「ちょっと年が離れてるけどなあ」
「それくらいは多分別に」
「確か前に急きょ実家に帰るって言って休んだことがあったでしょ。あれは大丈夫なの?」
うわ……こんな所にきて、あの嘘が蘇ってくるとは!
「いえ……」
全てを話した方がいいのかどうか、迷う。
「家族が体調悪いとか、そういうことではない?」
だけど多分、迷っている場合ではない。
「そういうことじゃないです。あの時のは…………もう大丈夫です」
六千万の借金……。
やくざと、六千万の借金の話をしなければならないと分かっているのに、口からは何も出ない。
「依子」
「え…………はい……」
なんだか声が真剣になった気がして、怖くて返事が遅れた。
「…………」
背中にまわされた手に、少し力が入っているのが分かる。
「明日妊娠していたら、すぐに親に報告して了承をもらおう。婚姻届も取ってきて、提出しよう」
「えっ、明日全部ですか!?」
「出すのは後でもいいけど」
「……えっ……。明日……私、武之内店長と、結婚するって……」
「なんか実感沸かないな」
そんなどころか、たまらなく不安で……不安なんですけど……。
「あの、私のこと、本当に好きなんですか?」
「何でそんなこと聞くの? 聞く意味あるの?」
若干怒っている気がするが、
「いやだって……」
少なくとも、私は好きじゃない気がする……。
「好きに決まってるでしょ。結婚しようって言ってるのに」
「いつから好きだったんですか?」
「いつからとかは関係ない」
なんで……それが関係ないの?
「私……嫌われてるんだと思ってました」
「だからその話はもういいって」
何でその話はもういいの?
「さあもう寝よう。夜更かしはよくない」
背中にまわっていた手がすっと離れた。
「おやすみ」
空しくて、涙が流れた。
何もうまくいかなくて、悔しくて静かにシーツが冷たくなっていった。
なのに武之内はすんなり寝息をたてて、本当に眠ってしまう。
なんだかとても嫌で眠れなくて。しばらくしてからベッドから降りて、クッションを頭に炬燵で横になった。
結婚……本当にするのだろうか、本当にうまくいくのだろうか。
幸せにするという意味が分かっているのだろうか。
仕事をして稼げばそれでいいと思っているのではないか。
家事も育児も全部、言う通りにしなければ冷たくされるのではないか。
一生、泣いて暮らすんじゃないだろうか……。
……こんなはずじゃ、なかったのに。
こんな風に結婚するなんて…………なんで……一体……。