【完】『碧(あお)の十字架』
碧の十字架

文字が美しい人、というのは、それだけで異性を惹き付けてしまう充分な要素となるらしい。

時期は、十一月であった。

紅葉は盛りである。

底抜けに空は高く青い。

篠崎みなみがその異性を最初に見たのは、寺町通に面した革堂の裏手の、町家を改装した、糸屋格子がよく目立つギャラリーであった。

女子高の先輩が東京で漫画家となって成功し、凱旋の個展を開くという話になり、

「みなみも、どう?」

と誘われたのが切っ掛けである。

そもそも。

みなみの女子高には漫画の部活がない。

校歌も英語で制服もなく、卒業生の大半は系列の大学か女子大学へ行く。

そうした中で。

先輩は実に変わっている。

東京の専門学校へ進み、在学していた時期にあちこち編集部へオリジナルの漫画を持ち込み、

──改善点ありますか?

と意見を聞いたりしながら次第に頭角をあらわし、しまいにはプロとなった…といったいきさつがあった。

(そんな先輩がいたとは)

みなみには新鮮な衝撃であったらしい。

それは、置く。

ギャラリーには先輩が描いた漫画の原画や肉筆のイラストが飾られ、アニメ雑誌を抱えた中学ぐらいの女の子が、サインをもらったらしくキャーキャーと黄色い声をあげていた。

それをみなみは見て、

(熱中できるってスゴいな)

そういえばみなみは入れあげられるだけの何かが、まだない。



無理もないであろう。

半年ばかり前の、中学校の卒業式を目前にした三月の大震災で、仙台から京都へ疎開してきたばかりなのである。

そのため。

高校も疎開した先の京都で改めて試験を受け、合格をもらっている。

果たして。

みなみは馴染めないでいた。

クラスの周りがほとんど関西なまりの中、一人だけアクセントが違う。

みなみの事情を知るクラスメイトの関藤ミカは、

──気にしなくても大丈夫じゃないかな。

と言ってはくれるのだが、

(それでも、どうなのかなあ…)

といったわだかまりは、拭い去れないでいる。

ついでながらミカは神奈川から来ていた。

(どうりで)

垢抜けている理由が、何となくみなみは分かったような気がした。



話を戻す。

ギャラリーでは別の展覧会がもう一つ開かれていた。

「書と花─島碧城の世界─」

という、どうやら個展のようである。

時間があった。

入ると、寸松庵というサイズの小さな色紙に様々な書体で文字がかかれ、そばに小さな鉢に植えられた黄色の菊のような花や、真っ赤な線香花火の集まりのような花が添えられてある。

「わぁ…可愛い」

線香花火の集まりのような花は、流れるように書かれた色紙に添えられてあった。

「それ、可愛いでしょ?」

後ろから声がした。

振り向くと、

「驚かしてごめん」

ミリタリーの古着に、バンダナを頭に巻いた彫りの深い青年がたたずんでいる。

「その花はね、大文字草っていうんや」

花が一つ一つ大の字やろ、とバンダナの青年は言った。

「その和歌はね」

と机にあった付箋紙を引き寄せると、

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」

サラサラ書いて見せた。

「君は学生?」

どんどん色んな本物を見た方がえぇ、といって和歌の書かれた付箋紙をみなみに渡した。

そこへ。

「みなみー…あ、こっちにいたんだ?」

行こ、とミカに促されるとみなみは振り向きざまバンダナの青年に会釈すると、寺町通へ出た。

すでに。

少し、日は傾いていた。



数日が、経った。

すっかりみなみはこないだのギャラリーのことは忘れかけている。

が。

バンダナの青年の横顔だけははっきり脳裏にあった。

キリッとした顔立ち、隆い鼻、長い睫毛、明るめの声、薄い茶色をした瞳──。

あまり日本人らしくない風貌であろう。

(外国人なのかな?)

恐らく弟子の一人なのだろう…とみなみは勝手な妄想を膨らませている。

ぼんやりしていた。

「…みなみ!」

ミカが呼んだ。

ハッと我に返ったらしい。

ビクッとしながらミカの声がした方へ向いた。

「さっきから何度も呼んだのに、全然気づかないんだもん…」

何か悩みあるの?──ミカが訊いてきた。

「何もないよ」

「あ…もしかしたら、こないだのギャラリーのイケメン?」

ミカはバンダナの青年はイケメンだと言うのである。

「前に島先生はイケメンだよって聞いてたけど、あれはかなりハイレベルだよねぇ」

バンダナの青年が島碧城本人だというのを、なぜかミカは知っているらしかった。

「ふーん、そうなんだ?」

「知らないよね…読者モデルの仲間じゃ、有名な噂なんだ」

そういえばミカは神奈川にいた頃からファッション雑誌の読者モデルをしている。

「でもあれで彼女いないって噂だし、みんながチャレンジしないならアタシ挑戦してみようかなぁ?」

「うまくゆくといいね」

みなみはフラットな言い方をした。



十二月になった。

すっかり時雨で葉は落ち、ちらほら生垣で寒椿が咲き始めている。

京都の町にもあちこちオーナメントやらツリーやら飾られ、四条や河原町あたりの店先が華やいできた頃、テストあけのみなみは珍しく寄り道をした。

使っているペンの尖端が、床へ落としたはずみで折れてしまったのである。

仕方なく。

錦天神の脇の雑貨屋に立ち寄って新たにペンを買い、ついでに丸善まで本を見に寄った。

みなみがレターセットの棚を見ていると、驚いた顔をして、

「…!」

思わず奇声をあげそうになった。

見ると。

レジに例のイケメンがいるではないか。

何やら買った。

視線に気づいたらしい。

「…あ、こないだの」

君もここ来るんやね、と声をかけてきた。

「お久しぶりです」

みなみはペコリと頭を下げた。

「確か…みなみちゃん、やったっけ?」

「はい」

みなみをイケメンは覚えていたようである。

「俺、碧城(あおき)っちゅうんや」

よろしくな──碧城は左手を差し出した。

握手らしい。

「こちらこそ」

みなみも左手を出した。

手で挨拶を交わす。

どうやら利き手は左手らしかった。



二、三日ばかり過ぎた。

「辻利のパフェを食べに行こう」

とミカに誘われたみなみは連れ立って、八坂神社の門前にある辻利のカフェまで足をのばした。

二人でパフェを頼むと、

「あのイケメンさぁ、何か気になる女の子いるみたいなんだよねー」

ミカが切り出した。

「そうなんだ?」

こないだ丸善で挨拶したよ、とみなみは言い、

「でもそんなそぶりは見せなかったけど」

といって、スプーンを動かしてゆく。

「でもあれでうちらと二十歳も違うって、知らなかった」

うちの学校なら主任のアベちゃんみたいな年だよ、とミカは食べ進んでゆく。

「聞いたらビックリだらけでさー。やっぱりイケメンは見てるだけで充分な癒しだよねー」

ミカは真ん中のバニラアイスの層まで到達していた。



翌日。

受験本を見に丸善に寄ると、再び碧城に出会った。

「あ、みなみちゃんやないか?」

普段の鋭い目が嘘のように碧城は目を細めていた。

「みなみちゃん本好きなんや?」

「はい」

何か本を買ったらしい。

「それ…?」

「あ、これか…前から探しとった禅の本やね」

「…何か難しそう」

「そうかな?」

顔に似合わず、飄々とした口調で碧城は言う。

「書って人間性出るから、キッチリやっとかんとあかんくて」

今度暇な時にでもアトリエいらっしゃい、と言うと、みなみと碧城はその日はそのまま別れた。



明くる日の放課後。

今出川の煉瓦色の、八角形の校舎をみなみが出ようとした時、

「みなみ、おつかれー」

「あ、ミカ」

寒いのかミカはカシミアのマフラーを巻いている。

「…あのねミカ」

「ん?」

「例のイケメンからさ、今度アトリエに遊びにおいでって誘われたんだけどさ」

「あ、そうなんだ?」

「ミカに付き合って欲しくて」

「うん、いいよー」

女子一人じゃ怖いよね、とミカは笑い飛ばしながら、上履きから革靴に履き替えた。

「じゃ、今から行ってみよっか」

「えっ?」

みなみは面食らった。

が。

そうしたみなみの戸惑いを気にも留めない様子で、ミカはみなみの手を引いて、駐輪場に向かった。

自転車で今出川通を西へ入って、大宮通を織部寺の方へ折れてしばらく北へ上がると、

「アトリエ村」

と呼ばれる、昔ながらの京町家の長屋が見えてきた。

あとからみなみは聞いたが場所的に、上御霊前大宮にあたる。

「こっちだよ」

ミカに案内されてみなみがついてゆくと、オブジェや彫刻、絵画が嵌め込まれた窓など、長屋らしからぬ物ばかりが並んでいる。

ドン突きの手前の一軒で、ミカが止まった。

「センセお久しぶりー」

「あ、ミカちゃん」

「今日はさー、みなみ連れてきたよー」

「あ、ホンマや」

碧城は目を丸くした。

みなみは何が何だか事態がよくわからなかった。

「ミカ…知り合い?」

「うん」

だってアタシ姪だもん、とミカはケロッとした顔で言った。

「まぁパパの再婚相手の弟だから、血は繋がってないけどね」

「でもこないだ挑戦してって…」

「あんなのジョークに決まってるじゃーん」

だってうち彼氏いるんだよ、とミカは笑った。

「ほら…みなみ真面目なんだもん」

でも最初聞いた時はビックリだった…ともミカは言い、

「パパの再婚が今年の夏だったから、まだ親戚なりたてだし」

みなみは驚きで声も出なかった。

後で話を繋ぐと、

「アタシもこないだ初めて聞いたんだよね」

というのがミカの立場で、碧城も個展の直前まで知らなかったらしい。

「せやから聞いた時には、まぁビックリなんてレベルじゃ済まされんくて」

ミカは例の寺町から帰って初めて聞いたらしい。

「こんな、海外のドラマみたいなこと、実際にあるんだーって」

それでも。

ミカの物怖じしない性分のおかげか、今ではすっかり打ち解けている。

「義理でも叔父って呼ぶのは何か変だし、だからセンセっていつも呼んでる」

ミカは笑った。

頭の整理がつき始めたみなみは、ようやく笑うことが出来た。



時雨が、降った。

すっかり肌寒くなった日曜日、みなみは織部寺の裏手のケーキ屋に寄った帰り、アトリエ村の碧城の部屋を訪ねた。

「こんちは」

「あ、みなみちゃん」

どしたん?──碧城は訊いた。

「あのー…島センセって、彼女いたりします?」

「今はおらんけど」

「…あっ、そうなんだ」

「どしたん?」

「いや、…何でもないです」

どぎまぎしてみなみは否定した。

「そっか…」

碧城は再び料紙に向かった。

「何を書いてるんですか?」

「カレンダーやね」

そこには余白が上に取られた一年ぶんのカレンダーがある。

「なかなか決まらんくてやねー」

「大変なんですね」

「商売ベースやったら普通の言葉でえぇんやけど、自分用やからね」

年中ずっと目にするから、手抜きする訳にも行かんし、と碧城は言う。

「…せや、気分転換したろかな」

みなみちゃん時間あるなら一緒に出かけへんか?──というきっかけで、碧城はみなみをバイクの後部に乗せ、上御霊前大宮を出発した。


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