六つの夢
午後九時。
この時間になると、紀伊國屋ビルの前で彼氏か彼女を待つ人が大分少なくなった。JR新宿駅へ向かう人のほうが少しずつ増えていく。
黒花は紀伊國屋ビルの地下のファスト・フードのお店で買った食物をほおばりながら一階の壁の時計をちらっと見た。会っていっしょに食事をするつもりだった。待っているうちに凄い空腹感に襲われ、たまらなくお腹が空いた。出雲に会いたい一心で、すべてを忘れてしまった。腹がしきりにグーグー鳴り、やっとお昼を食べてから八時間以上経ったことに気づいた。
出雲のことで頭がパンクしそうな黒花は心ここにあらざれば、食えども、その味を知らずの状態。自分でもなにを買ったのか、なにを食べているのか分からない。単純に腹に食物を詰め込んでいるだけ。
理性に従えば、帰るべき。約束の時間から二時間経過した。もう望みがほとんどないに等しい。頭の中では分かるけど、心情的にはまだ諦められない部分がある。黒花は出雲を待つというよりも、自分を納得させるために頑張っている。帰りたい気持ちと待ちたい気持ちの二つの相反する気持ちが同じぐらいの力で綱引きしている。なかなか決心がつかない。終わりなき戦いは続く。
出雲は約束を守らない人ではない。一番感受性が強い時にお互いに指切りまでして誓った約束を忘れるはずがない。黒花は七夕の日に必ず出雲との約束を思い出す。出雲も自分と交わした約束を忘れていないはずだ、と信じたいが、十年の歳月が流れた。世の中は移り変わりが激しく、十年も経つと人間が変わる。気持ちが変わる。人生は予想外のことがよく起きる。思ったように物事が進むことのほうが少ない。黒花は社会人になってから人生の無常を感じるようになった。
そう考えると、もう一つの最悪のシナリオが脳裏に浮かんだ。出雲は彼氏がいるかもしれない。結婚したかもしれない。お母さんになった二十代の女性が相当いる。出雲がお母さんになっても全然おかしくない。
最悪のシナリオを脳裏から追い払うように、黒花は頭を強く振ったが、弱気になった。やっぱり帰ろうか、と黒花はもう一度壁の時計を見た。
勉強会が終わった後、黒花は出雲と三河三人で学校近くのファスト・フードのお店に入った。黒花は早く帰宅してお母さんの荷物の整理を手伝わなければならないが、自分自身の直感を信じることにした。これから出雲と仲良くなれそう。目の前にあるチャンスをみすみす見逃すつもりはない。
三人はそれぞれ食物と飲物を買って空いている席に座った。
「黒花君の英語力はやっぱり凄い。感心しましたわ」出雲は少し砂糖をコーヒーに入れながら言った。
「出雲さんも凄いじゃないですか。将来は英語の仕事をしたいですか」
「できましたら英語の仕事をしたいわ」
「出雲さんならできる」
「私の英語力が一番低い」三河が少し引け目を感じているようだ。三河は英語クラブの会長だが、二人に比べれば、英語力がやや落ちる。
「三河さんも凄いよ。クラブの部員は皆平均以上の英語力。クラブの存在は大きい。参加してよかった」黒花は切磋琢磨できる仲間ができて嬉しい。
「そう言われると嬉しい」三河が破顔一笑した。
「クラブも黒花君のような実力者が入って来て嬉しい」出雲は実力者が入って来て部員の刺激になることが嬉しい。
「これからいっしょに勉強しましょう」
「黒花君、電話番号を教えます。連絡用に電話番号を教えてください」三河はカバンからノートとペンを出した。
黒花は嬉しそうに電話番号を教えた。ついでに出雲と電話番号を交換した。すべてがうまく行って、黒花は思わず心の中で「やったァ」と叫んだ。
転校は最初はいやだった。いつもやっとできた友達と別れなければならなかった。小学校低学年の時は泣いたことがあった。別れるのは辛いけど、全国いろんなところに友達がいる、と見方を変えれば、人生が変わる、とお父さんに言われて、やっとマイナス思考をプラス思考に変えることができた。転校しているうちに慣れてきてうまく対応できるようになった。今回初めて転校してよかった、と思っている。この学校へ導いてくれた神様に感謝している。
ウェテイングサークルでバットを持って、黒花は相手チームのピッチャーの投球を見ている。打てないピッチャーではないが、深夜まで山積みの段ボール箱の荷物整理を手伝ったせいか、体に疲れが残っている。引っ越しをする度に必要のないものの多さに呆れる。引っ越した後の荷物の整理は結構重労働。新しい場所のせいか、寝付きが悪かった。黒花は眠気と戦いながら野球をやっている。
振りが鈍い。読みも甘い。第三打席まで二つの三振を含め、ヒットなしに終わった。
この日曜の町内のチームの試合に出るつもりはなかった。深夜を過ぎてから寝たので、遅くまで寝たかった。朝隣りのショウちゃんにしつこく誘われて、やっと試合に出ることにした。町内チームのメンバーも新しいメンバーである黒花の実力を見たいようだ。
一番を打つ黒花は四打席目だが、八回か九回にもう一回打つチャンスが回って来そうな状況。しかし、今回ヒットが出なければ下げられそう。いままで凡退した。黒花はなんとしてもチームのためにヒットを打ちたい。ピッチャーの配球を読めるが、バットが重く感じて、打てる自信がない。
黒花は祈るようにバッターボックスに入った。バットをくるくる回して構えに入る。上半身を少し捻転させてピッチャーの投球を待っている。
「黒花君、頑張ってェー」スタンドから声援が飛んできた。
声援を聞いた黒花は手を上げてタイムを取った。スタンドを見ると、出雲が真ん中のところに座っている。想定外の出雲の出現に黒花は驚きながらも喜ぶ。心が思わず躍ってしまう。眠気が一遍に吹っ飛んだ。出雲の前で恥を掻きたくない、格好いいところを見せたい一心で気合いの入る黒花は闘志を前面に出した。
ピッチャーが投げた直球をセンター前に運んだ黒花は二塁でガッツポーズをした。出雲から大分離れているが、出雲の拍手が聞こえるような気がする。二人は視線を合わせて軽く微笑んだ。お互いに心が通じ合うことに黒花は内心歓喜雀躍。
チームは3-2で負けた。最後にいいところを見せることができた黒花はほっとした。新しいメンバーはどうしても注目の的となる。強打者ではないけど、確かな打力を持つことを証明した、と黒花は見る。嬉しい誤算は出雲の出現。期待していなかっただけに喜びはひとしお。
両チームが試合終了後の挨拶が終わった後、黒花はスタンドに行った。
「いつ来たのですか」黒花は顔を上げて、出雲の目を見た。
「途中から来ました。従兄の秀男がチームのメンバーです」出雲がにっこりと微笑みを見せた。
新人の黒花はまだメンバーの顔と名前が一致しない。秀男と言われてもぴんと来ない。頭の中を捜索しても浮かばない。
「センターを守る選手です」困惑した表情をした黒花に出雲が説明した。
「ああ、分かりました。毎週来るのですか」
「ほとんどきません。今日はタロウを散歩に連れて行ったので、ついでに来ました」出雲が隣りに座っている犬を指さした。
「可愛い」おとなしく座っている姿は可愛い。黒花は屈んで犬の頭を撫でながら言った。「食事に行きましょうか」
「はい」
「すぐ着替えて来ます。待ってください」黒花は急いでベンチに戻り、はやる気持ちを抑えながら着替えた。
学校にいる時はいつもいっしょにいる。放課後と部活後はいっしょに帰る黒花と出雲はあっという間に学校の噂になった。容姿端麗、学業優秀な出雲は学校のマドンナ的な存在。ファンが多い。黒花は羨望の的となった。
出雲との関係がうまく行っている黒花は毎日ルンルン気分。学校が楽しくてしょうがない。なにをやってもおもしろい。幸せ一杯の日々を送っている。
この日、黒花はトイレで用を足した後、始業ベルを聞き、急いで手を洗ってトイレを出ようとした時に、長沢が突然外から入って来て黒花を中へ押し戻した。二人きりになった。他に人がいないのを狙っていたようだ。
「お前は野球部に入るんじゃなかったのか」長沢はもの凄い形相で睨み付けている。
「学校の野球部には入りたくない」黒花は涼しい顔で言った。
「どうして」他人事のように知らん顔をしている黒花に長沢は一層頭に来た。
「どうしてでしょう」黒花が分からないというように肩を竦めた。
「おい、答えろ」
「分からない」
「デートが忙しいから野球をやる時間がないのか」
「かもしれない」
「かもしれないとはなんだ」
「あんたに説明する義務がない」
「ちゃんと説明しろう」
「あほらしい」
「なんだとぉ」
「もういい。俺はクラスに行く」
「待て、野球部に入れ、デートはやめろ」
「それは俺が決める」
「そうは行かない」
黒花は冷笑を浮かべて見せた。相手にするのもばかばかしい、というような表情をした。
嘲笑されたようで、一瞬長沢の全身から怒気が噴き出した。怒りのあまり黒花を壁にぶつけた。「今日は時間がないから見逃してやる。デートはするな」
「あんたに言われる筋合いはない」常に冷静さを失わない黒花が永沢の目をじっと見つめている。
「この学校のことは俺が決める」
普通の生徒は長沢に睨み付けられるだけで、心が凍り付きビビッてしまう。どんな状況でもバタバタ動じない黒花が長沢を苛立たせた。
「そう思うのはあんたの勝手だけど」
「痛い目に合うぞ」
「脅し!」
「脅しと思えばいい」
「覚えとくよ」
「俺は有言実行だからな。覚えていろ」
「肝に銘じておくよ」
教室に戻り、黒花は二、三回深呼吸して心を落ち着かせる。長沢との対決は神経を高ぶらせた。心の安静を取り戻すことが大切。机の上に置いてあった歴史の教科書がない。黒花はカバンから教科書を出して、机の上に置いてからトイレへ行ったことを覚えている。念のためにカバンと机の中を調べて見た。やはりない。子供のいじめの再現に黒花は思わず苦笑いをした。中学生になっても小学生のIQレベルの人がいる。体は大きくなるが、精神年齢は成長しない。転校常連の黒花は小学校の時はよくいじめに遭った。鍛えられて強くなった。
「先生」黒花が手を上げた。「すみません、教科書が消えました」
「消えました?」上野先生は不思議そうな顔をした。
「隠されたか捨てられた、と思います」
「忘れなかったですか」
「忘れませんでした。トイレへ行く前に机の上に置きました。五分ぐらい前のことです」
「いじめですか。そういう悪戯はやめなさい。もう中学三年生でしょう。もう子供じゃないですよ」
「先生、そういうことをやる人は金玉が小さいです。男のくせに度胸がありません。堂々と悪いことをすることができません」
黒花の言葉でクラス全体がどっと笑い出した。
「黒花くん、気持ちはよく分かりますが、言い過ぎはよくありません。隣りの坂田君といっしょに座って勉強してください」
黒花は坂田のデスクに椅子を寄せた。
この時間になると、紀伊國屋ビルの前で彼氏か彼女を待つ人が大分少なくなった。JR新宿駅へ向かう人のほうが少しずつ増えていく。
黒花は紀伊國屋ビルの地下のファスト・フードのお店で買った食物をほおばりながら一階の壁の時計をちらっと見た。会っていっしょに食事をするつもりだった。待っているうちに凄い空腹感に襲われ、たまらなくお腹が空いた。出雲に会いたい一心で、すべてを忘れてしまった。腹がしきりにグーグー鳴り、やっとお昼を食べてから八時間以上経ったことに気づいた。
出雲のことで頭がパンクしそうな黒花は心ここにあらざれば、食えども、その味を知らずの状態。自分でもなにを買ったのか、なにを食べているのか分からない。単純に腹に食物を詰め込んでいるだけ。
理性に従えば、帰るべき。約束の時間から二時間経過した。もう望みがほとんどないに等しい。頭の中では分かるけど、心情的にはまだ諦められない部分がある。黒花は出雲を待つというよりも、自分を納得させるために頑張っている。帰りたい気持ちと待ちたい気持ちの二つの相反する気持ちが同じぐらいの力で綱引きしている。なかなか決心がつかない。終わりなき戦いは続く。
出雲は約束を守らない人ではない。一番感受性が強い時にお互いに指切りまでして誓った約束を忘れるはずがない。黒花は七夕の日に必ず出雲との約束を思い出す。出雲も自分と交わした約束を忘れていないはずだ、と信じたいが、十年の歳月が流れた。世の中は移り変わりが激しく、十年も経つと人間が変わる。気持ちが変わる。人生は予想外のことがよく起きる。思ったように物事が進むことのほうが少ない。黒花は社会人になってから人生の無常を感じるようになった。
そう考えると、もう一つの最悪のシナリオが脳裏に浮かんだ。出雲は彼氏がいるかもしれない。結婚したかもしれない。お母さんになった二十代の女性が相当いる。出雲がお母さんになっても全然おかしくない。
最悪のシナリオを脳裏から追い払うように、黒花は頭を強く振ったが、弱気になった。やっぱり帰ろうか、と黒花はもう一度壁の時計を見た。
勉強会が終わった後、黒花は出雲と三河三人で学校近くのファスト・フードのお店に入った。黒花は早く帰宅してお母さんの荷物の整理を手伝わなければならないが、自分自身の直感を信じることにした。これから出雲と仲良くなれそう。目の前にあるチャンスをみすみす見逃すつもりはない。
三人はそれぞれ食物と飲物を買って空いている席に座った。
「黒花君の英語力はやっぱり凄い。感心しましたわ」出雲は少し砂糖をコーヒーに入れながら言った。
「出雲さんも凄いじゃないですか。将来は英語の仕事をしたいですか」
「できましたら英語の仕事をしたいわ」
「出雲さんならできる」
「私の英語力が一番低い」三河が少し引け目を感じているようだ。三河は英語クラブの会長だが、二人に比べれば、英語力がやや落ちる。
「三河さんも凄いよ。クラブの部員は皆平均以上の英語力。クラブの存在は大きい。参加してよかった」黒花は切磋琢磨できる仲間ができて嬉しい。
「そう言われると嬉しい」三河が破顔一笑した。
「クラブも黒花君のような実力者が入って来て嬉しい」出雲は実力者が入って来て部員の刺激になることが嬉しい。
「これからいっしょに勉強しましょう」
「黒花君、電話番号を教えます。連絡用に電話番号を教えてください」三河はカバンからノートとペンを出した。
黒花は嬉しそうに電話番号を教えた。ついでに出雲と電話番号を交換した。すべてがうまく行って、黒花は思わず心の中で「やったァ」と叫んだ。
転校は最初はいやだった。いつもやっとできた友達と別れなければならなかった。小学校低学年の時は泣いたことがあった。別れるのは辛いけど、全国いろんなところに友達がいる、と見方を変えれば、人生が変わる、とお父さんに言われて、やっとマイナス思考をプラス思考に変えることができた。転校しているうちに慣れてきてうまく対応できるようになった。今回初めて転校してよかった、と思っている。この学校へ導いてくれた神様に感謝している。
ウェテイングサークルでバットを持って、黒花は相手チームのピッチャーの投球を見ている。打てないピッチャーではないが、深夜まで山積みの段ボール箱の荷物整理を手伝ったせいか、体に疲れが残っている。引っ越しをする度に必要のないものの多さに呆れる。引っ越した後の荷物の整理は結構重労働。新しい場所のせいか、寝付きが悪かった。黒花は眠気と戦いながら野球をやっている。
振りが鈍い。読みも甘い。第三打席まで二つの三振を含め、ヒットなしに終わった。
この日曜の町内のチームの試合に出るつもりはなかった。深夜を過ぎてから寝たので、遅くまで寝たかった。朝隣りのショウちゃんにしつこく誘われて、やっと試合に出ることにした。町内チームのメンバーも新しいメンバーである黒花の実力を見たいようだ。
一番を打つ黒花は四打席目だが、八回か九回にもう一回打つチャンスが回って来そうな状況。しかし、今回ヒットが出なければ下げられそう。いままで凡退した。黒花はなんとしてもチームのためにヒットを打ちたい。ピッチャーの配球を読めるが、バットが重く感じて、打てる自信がない。
黒花は祈るようにバッターボックスに入った。バットをくるくる回して構えに入る。上半身を少し捻転させてピッチャーの投球を待っている。
「黒花君、頑張ってェー」スタンドから声援が飛んできた。
声援を聞いた黒花は手を上げてタイムを取った。スタンドを見ると、出雲が真ん中のところに座っている。想定外の出雲の出現に黒花は驚きながらも喜ぶ。心が思わず躍ってしまう。眠気が一遍に吹っ飛んだ。出雲の前で恥を掻きたくない、格好いいところを見せたい一心で気合いの入る黒花は闘志を前面に出した。
ピッチャーが投げた直球をセンター前に運んだ黒花は二塁でガッツポーズをした。出雲から大分離れているが、出雲の拍手が聞こえるような気がする。二人は視線を合わせて軽く微笑んだ。お互いに心が通じ合うことに黒花は内心歓喜雀躍。
チームは3-2で負けた。最後にいいところを見せることができた黒花はほっとした。新しいメンバーはどうしても注目の的となる。強打者ではないけど、確かな打力を持つことを証明した、と黒花は見る。嬉しい誤算は出雲の出現。期待していなかっただけに喜びはひとしお。
両チームが試合終了後の挨拶が終わった後、黒花はスタンドに行った。
「いつ来たのですか」黒花は顔を上げて、出雲の目を見た。
「途中から来ました。従兄の秀男がチームのメンバーです」出雲がにっこりと微笑みを見せた。
新人の黒花はまだメンバーの顔と名前が一致しない。秀男と言われてもぴんと来ない。頭の中を捜索しても浮かばない。
「センターを守る選手です」困惑した表情をした黒花に出雲が説明した。
「ああ、分かりました。毎週来るのですか」
「ほとんどきません。今日はタロウを散歩に連れて行ったので、ついでに来ました」出雲が隣りに座っている犬を指さした。
「可愛い」おとなしく座っている姿は可愛い。黒花は屈んで犬の頭を撫でながら言った。「食事に行きましょうか」
「はい」
「すぐ着替えて来ます。待ってください」黒花は急いでベンチに戻り、はやる気持ちを抑えながら着替えた。
学校にいる時はいつもいっしょにいる。放課後と部活後はいっしょに帰る黒花と出雲はあっという間に学校の噂になった。容姿端麗、学業優秀な出雲は学校のマドンナ的な存在。ファンが多い。黒花は羨望の的となった。
出雲との関係がうまく行っている黒花は毎日ルンルン気分。学校が楽しくてしょうがない。なにをやってもおもしろい。幸せ一杯の日々を送っている。
この日、黒花はトイレで用を足した後、始業ベルを聞き、急いで手を洗ってトイレを出ようとした時に、長沢が突然外から入って来て黒花を中へ押し戻した。二人きりになった。他に人がいないのを狙っていたようだ。
「お前は野球部に入るんじゃなかったのか」長沢はもの凄い形相で睨み付けている。
「学校の野球部には入りたくない」黒花は涼しい顔で言った。
「どうして」他人事のように知らん顔をしている黒花に長沢は一層頭に来た。
「どうしてでしょう」黒花が分からないというように肩を竦めた。
「おい、答えろ」
「分からない」
「デートが忙しいから野球をやる時間がないのか」
「かもしれない」
「かもしれないとはなんだ」
「あんたに説明する義務がない」
「ちゃんと説明しろう」
「あほらしい」
「なんだとぉ」
「もういい。俺はクラスに行く」
「待て、野球部に入れ、デートはやめろ」
「それは俺が決める」
「そうは行かない」
黒花は冷笑を浮かべて見せた。相手にするのもばかばかしい、というような表情をした。
嘲笑されたようで、一瞬長沢の全身から怒気が噴き出した。怒りのあまり黒花を壁にぶつけた。「今日は時間がないから見逃してやる。デートはするな」
「あんたに言われる筋合いはない」常に冷静さを失わない黒花が永沢の目をじっと見つめている。
「この学校のことは俺が決める」
普通の生徒は長沢に睨み付けられるだけで、心が凍り付きビビッてしまう。どんな状況でもバタバタ動じない黒花が長沢を苛立たせた。
「そう思うのはあんたの勝手だけど」
「痛い目に合うぞ」
「脅し!」
「脅しと思えばいい」
「覚えとくよ」
「俺は有言実行だからな。覚えていろ」
「肝に銘じておくよ」
教室に戻り、黒花は二、三回深呼吸して心を落ち着かせる。長沢との対決は神経を高ぶらせた。心の安静を取り戻すことが大切。机の上に置いてあった歴史の教科書がない。黒花はカバンから教科書を出して、机の上に置いてからトイレへ行ったことを覚えている。念のためにカバンと机の中を調べて見た。やはりない。子供のいじめの再現に黒花は思わず苦笑いをした。中学生になっても小学生のIQレベルの人がいる。体は大きくなるが、精神年齢は成長しない。転校常連の黒花は小学校の時はよくいじめに遭った。鍛えられて強くなった。
「先生」黒花が手を上げた。「すみません、教科書が消えました」
「消えました?」上野先生は不思議そうな顔をした。
「隠されたか捨てられた、と思います」
「忘れなかったですか」
「忘れませんでした。トイレへ行く前に机の上に置きました。五分ぐらい前のことです」
「いじめですか。そういう悪戯はやめなさい。もう中学三年生でしょう。もう子供じゃないですよ」
「先生、そういうことをやる人は金玉が小さいです。男のくせに度胸がありません。堂々と悪いことをすることができません」
黒花の言葉でクラス全体がどっと笑い出した。
「黒花くん、気持ちはよく分かりますが、言い過ぎはよくありません。隣りの坂田君といっしょに座って勉強してください」
黒花は坂田のデスクに椅子を寄せた。