たったひとりの君にだけ

すっと離れる腕。


「じゃ、俺行くわ」


付き合っていた頃の別れ際のような声色で。
すぐに次が訪れる、そんな雰囲気を醸し出すけれど。

樹は、あの頃のように“またな”とは言わない。


「……うん。フランスでも、頑張って」

「ああ。……なぁ、芽久美」

「なに?」

「うまくいくといいななんて言わねえから」


だけど、言葉とは裏腹の表情がそこにはあるから。
私は無神経覚悟で微かに笑みを返す。


「……わかってる」

「あっそ。じゃ、俺ホントに行くわ。……芽久美、元気で」

「そっちこそ、元気で」


私の最後の言葉に、僅かに口角を上げた後、何事もなかったかのように樹は歩き出す。
そして、後ろ背に軽く手を振った。


きっと、二度と会うことはないだろう。


樹もきっと、それを望んではいない。

今までの人生で、最も長い時間を過ごした人。
本人には言わなかったけれど、身勝手の中にも優しさと包容力のあった人。

その気持ちに応えられなかったことを、申し訳ないと思うのは酷く間違っているのかもしれないけれど。
今なら言える。



どうか、海の向こうで幸せになってほしい。



徐々に小さくなるその姿が、人込みで完全に消え去ったのを見届けた後で。
私も背を向けて、駅へと歩き始めた。
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