ring ring ring
 「おはよう。遅いから休みかと思っちゃった。あらら、高林くんと仲良く出社とは、婚約者がいるくせに、美波もやるね〜」
 由紀が明るく迎えてくれる。
 彼女は温泉の一件以来、夫婦仲が新婚当時に戻ったように良くなったらしい。おかげで毎日楽しそうで、それはとても喜ばしいのだけれど、今のわたしには、由紀の軽口に乗ってあげられる余裕などない。
 「仲良さそうに見えます?」
 わたしの代わりに高林くんが応じた。
 「見えないけどね。言ってみただけ。ていうか、美波、暗っ」
 そのとき、始業のベルが鳴った。
 高林くんは、「やべっ」と言って小走りで企画部へ続く扉を開けた。扉の向こうには、忠信さんがいるはず。きっと彼は、さりげなくわたしの指をチェックしに来るだろう。そういう、良くも悪くも律儀な人なのだ。そのときわたしは、どんな顔をすればいいのか。考えたくもないのに頭から離れなくて、仕事に身が入りそうもなかった。
 「美波、なんか怖い顔してるよ。どうした」
 由紀が大きなファイルを抱えて、わたしの席にやって来た。これは由紀とわたしの、勤務時間中だけれどプライベートな話をしたいときの常套手段だった。ファイルを間に置いてあれこれ話し、いかにも打ち合わせしています感を出すという無駄な演技力は、我ながら天下一品だと思う。
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