会いたいのに 言えない
「………スー……」

 首の後ろ辺りから、寝息が立ち始めた。

 相当疲れていたんだろう。

 目の前にある、力の抜けた腕を見ているだけで涙が出た。

 苦しくて。

 辛くて。

 不安で。

 好きで。

 好きだからこそ、ゆっくり寝かせてあげようと、布団から出るために身体を起こそうとした。

「どこ行くの?」

「わあっ!」

 背後から引き寄せられて、抱きしめられた。

「ん? 冷たい……」

 先生は涙に気付いて、手探りで頬を撫でてくる。

「また泣いてるの?」

 またという言葉が引っ掻かって、慌ててその腕から逃れようと身体を再び起こした。

「だからどこ行くのって」

 強引に引き寄せられ、今度は向い合せにさせられる。

「何で泣いてるの?」

「泣いてません」

 涙は既に乾いていたし、先生の胸元を見つめて言い切った。

「もう……どしたの」

 ぎゅうっと、胸板を引っ付けるように、抱きしめられた。

「なんかあったの? 仕事のこと? それ以外のこと?」

「別に何も……」

「何もじゃない。いつも適当に逃げるけど、もうそろそろ真剣に答えてくれてもいんじゃない?」

「わっ、私はいつも真剣です!」

 なんだか少し面倒くさそうに言われている気がして、慌てて返事をした。

「じゃなんで泣いてるの? 何でそのちゃんとした理由を言わないの?」

「別に、理由とか……」

「あの、前も聞いたよね? 泣いた理由。前は適当に流されたから、言いたくないんだろうと思って黙ってたけど。ちゃんと会話くらいしてほしいし」

 仕事の時のような、少しキツイ言い方に胸がグサリと痛んだ。

「…………かい、わ……ですか……」

「話できない理由でもある?」

 色々浮かび過ぎて、一気に口から出てしまいそうだったけど。

「だって社長だから、気を遣います」

 自分で言ってそうなんだろうかと疑問に思ったほど適当な言い草だった。

「…………」

 突然身体がぐらりと歪み、包まれていた腕が離れたのが分かる。

先生は、身体を起こして布団から出た。

「…………」

 ただ無言で。私の目の前で、脱いだスーツをまた元のように着直していく。

「……ちょっと頭、冷やしてくるわ」

「えっ?」

 意味が分からなくて、上半身だけ少し起こして、ただ着替える後ろ姿を眺めた。

「えっ、どうしたんですか?」

「そんな風に話されたら……頭くるでしょ」

 えっ……。

「えっ!? そのあの、すみません! 私、そんなつもりじゃ……」

「いいよ。しばらくしたら多分戻るから」

 多分という言葉が引っかかる。

「えっその、先生! あの、謝りますから!! すみません!! あっ、改めます。自分を、ちゃんと反省します!!」

「何の反省だか知らないけど……」

 どうしよう……なんか分からないけど、すごく怒っている。 

 どうしよう、もう部屋を出て玄関まで行ってる……。

 私は、とりあえず謝らなきゃと、裸のまま布団から飛び出して先生を追いかけた。

「先生! 私、ほんと、なんでもいいんです!! 先生が時々気にかけて、相手してくれたらそれでいいんです! 泣くのもやめます。仕事もちゃんとします。だから……」

 そこでようやく先生の顔を見た。

「…………」

 あまりにも、悲しそうな表情に逆に驚いた。

「何でそんなこと言うの?」

「…………、は、反省が足りなくて、すみません」

「そうじゃない」

 今度は怒った声になっていて、胸がズキンと痛む。

「何でそんな……まあいっか。裸で話するのもなんだし、布団戻ろっか」

 先生は急に溜息を吐いた。少し、顔を見た方がいいかと視線を上げると、穏やかな表情が目に入る。

 次に自分の足元を見た。確かに、全裸で玄関というのもなんだ。

 先生は私の手を引き、掛け布団を開いてくれる。私はその中に1人するりともぐり込んだ。

 手を引かれたことなんか一度もないけれど、怖いと思えるほど、その手はとても温かかった。

 先生は上着だけ脱いで、カーペットの上に座り込み背中を見せた。

「さっきの、時々相手してくれたらいいっていうのは何?」

 そこを突っ込まれると思っていなかったので、一旦考えてから、

「先生は忙しいから……という意味です」

「仕事の合間に相手すればいいって事?」

「……はい、仕事の他にもしなきゃいけない事があるだろうし」

「それでいいの? それがいいの?」

「……………」

 何を聞かれているのか分からなくて、黙ってしまう。

「………僕に気を遣ってるの? 社長だから」

「……それが、当然だと思います」

 先生はそれを聞いたきり、しばらく黙りこんでしまった。

 私も、何を話せばいいのか分からなくて、ただ布団の端を眺めていた。

 先生が息をする音だけが聞こえる。それがこんなにも心地いいのに、存在が眩しすぎて、手に負えない気がして怖くなる。

「…………僕は、最初に好きだと言ってくれたことを信じて今ここにいるんだけど」

 先生は、ようやく口を開いた。

「……それは、どういう意味ですか?」

「どういう意味もないよ」

 酷く、冷たい言い方にまた胸が痛む。

「え、好きじゃなかったってこと?」

「それは違います! 私は、……好きだから……」

 言ってしまっていいのかどうか、迷う。

「僕も同じ気持ちだけど」

 しっかり言葉で言ってくれているのに、心の芯に届いていかない。

「……はい……」

「仕事の合間に相手をすればいいとか、そんないい加減なつもりはない」

「…………」

 つもりはないとか言いながら、電話1つくれないくせに。

「立場上社長だから気を遣うのかもしれない。でも確かに、周りの目もあるし、仕事上では気を遣うのが当然だと思う。けど、今のプライベートな時間くらいは……」

 でも、それを拒んでるのは自分のくせに。

 プライベートな時間を減らしてるのは、自分のくせに。

「何?」

 言われて初めて、先生が私の顔をじっと見ていることに気付いた。

「なんか言いたいことがあるなら言って?」

 口を開こうとして、やっぱり閉じる。

「………」

「何? 聞くから。ちゃんと、聞きたいから」

 布団の中に大きな手が入ってきて。

 私の手をぎゅっと握りしめた。

「言ってくれないと分からないんだよ。サイン出してるのは分かる。けどそれが何なのかは、まだ僕には分からない」

 まだ……。

 まだ先がある……それなら。

 言ってダメならそれまでだと、一度きつく目を閉じてから薄く開いた。

「…………電話」

 思い切って一言だけ言ってみる。

「電話?」

 先生は聞き返した。

「電話? したいの? 時間遅くてもいい? 僕身体があくの遅くて。……いつも寝るの早いでしょ? 11時くらいじゃなかったっけ?」

「うん……」

「10時台に電話かけれることって少ないかもしれないけど、極力時間作る」

「別に、何時でもいい。起こしてくれればいい。……声が聞きたいから」

「…………、…………」

 先生はただ強く手を握り返してくる。

「電話……したかったの? それで泣いてたの?」

「別に……それだけじゃ、ないけど……」

 急に涙が、ただ溢れて止まらなかった。

「ごめんね……僕夜遅くて。だから極力かけないようにしてた。一旦起こして寝られなくなったら困るなと思って」

「今日の朝とか……来る前にしてほしかった」

「あぁ……」

 先生は笑った。

「ごめん、手が塞がってた上にバックの底の方に携帯がいってたから。まあいいかと思って」

 場を和ませようと穏やかに言ってくれているのに、私は真剣に

「声……聞きたかった」

そう言って、困らせてしまう。

「……ごめん」

 先生は、胸を詰まらせたような声を出した。だけど、その言葉に意味を持たせるように、顔をすぐそばまで寄せてきてくれる。

「不安になる。先生、すごくて。遠い存在で。だって先生だし。社長だし。先生のこと恰好良いって言ってる人他にもいるし」

「……あんまり会えなくてごめんね」

 一瞬で気持ちを見透かされてしまう。

 だけど、それじゃダメだとすぐに言葉を切り返した。

「違うんです。私は、そんなことを不満に思ってるわけじゃありません。あの……私が1人で勝手に……」

「違うの?」

「……違わないけど……」

 不満じゃないと言った側から否定してしまう。こんな風じゃダメだ。

「講師の方が時間かかるからね、最近は僕自身もくたくたなんだ。ちょっと時間数減らすか辞めるかなんかしたいなとは思ってる」

「でもそれは……」

 そう思っているはずがない。

「……すみません」

 そう言わせているのは、私だ。

「何で謝るの?」

「…………、余計なこと、言いました……」

「気にしすぎ」

 先生は、布団を少しはぐると、私の顔に頬をくっつけてきた。

「言っていいんだよ? もうほんとに僕が社長だから気を遣って黙ってるとか言うのはやめてくれ。一線を越えた覚悟が台無しになるから」

「え……?」

 私は、言っている意味が分からなくて、目を見つめた。

「会社の話ばかりして悪いけど、実際僕が社長で君が部下だから。そこはきちんとしとかなきゃいけない、っていうのは分かってるんだけどね。まあ、好きだから仕方ないっていうのが僕の悪い所」

「すみません!! 私がお誘いしたばっかりに!」

 全ての現況を作った自分の気持ちと、先生が好きだから先生の会社で働きたいなんて不純な気持ちを正当化させたことを、今更悔やむ。

「いや、僕は誘われて乗るような男じゃないよ」

 先生はあえて目を見つめて続けた。

「お互いの気持ちが同じことは早くから気付いてた。君は顔に出るから。だけどもし拒まれたらどうしようという気持ちの方が強かった。それなら、このまま上司でいた方が、毎日一緒にいられると思ってた」

「…………」

 私は先生の目を見て聞いた。

「先生……私のこと、好きだったんですか?」

「まあね」

 先生は軽く笑った。

 途端、胸のつかえが一気に落ちる。

「……じゃあ1つ聞いていいですか?」

「うん、何?」

「長い間会えないと不安じゃないですか?」

「そうだねぇ。でも夜中2時の帰宅途中にここへ寄るのも非常識だし、一緒に住もうと提案して断られるのは怖いし」

「…………え……、それって提案してくれてるんですか?」

「場合によっては独り言にとってくれてもいいんだけど」

 先生は柔らかな表情で、笑っていた。

 断られることはない、と確信している顔だ。

「先生……先生……」

 私は、震える声で先生の腕を抱き込んだ。

「悪かったね……心配させて……」

 頭からぎゅっと包み込んでくれる。

 好きでいて良かった。

 そう思った。

 結局私は先生のことをなかなか信じられなくて、ふさぎ込んでいただけだけど、それを吹き飛ばしてくれた。

 先生のことを、ただ好きで良かった。

 この人が私のことを、好きで良かった。
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