小咄
 会議室という名の座敷に通された千代は、そこで煙管を咥えた小柄な男に出迎えられた。

「いらっしゃい。やっぱり迷っちまったかい。狐姫に迎えに行かせたんだが、ここは見ての通り、ちょいと特殊なんでねぇ」

 ぽかんとしている千代に、男は名刺を差し出した。

「有限会社・妖幻堂代表、千之助ってんだ。よろしくな」

 名刺に目を落とし、そこに書かれた『代表取締役』の文字に、目が釘付けになる。

「あっ! し、失礼致しました! わたくし、mira商社営業部、千代と申します!」

 がばっと頭を下げる。
 まさかこの小さな男が、社長だとは。
 慌てすぎて、名刺のことなど頭からすっ飛んでいる千代であった。


「ちょいと、そこの研修生さん。これコピー取っておくれ」

「こっちの書類、日付順にファイリング頼むよ」

 仕事につくと、たちまち狐姫が千代に仕事を言いつける。
 しかも、ファイリングは錐を使っての和綴じだし、コピーに至ってはガリ版である。
 お陰で全く仕事がはかどらない。

「全く、出来ない子を寄越してくれたもんだねぇ」

 急須に茶葉を入れながら、狐姫が呆れたように言う。
 キッと千代は狐姫を睨んだ。

 だが、さくさく仕事をこなせないのも事実である。
 勝手が違うのだから、当然といえばそうなのだが。

 千代はインクにまみれた手を洗うと、狐姫が用意したお茶を、千之助の机に持っていった。

「おぅ、ご苦労さん。大変そうだな?」

 相変わらず煙管を咥えて座っている千之助が、気安く声をかける。
 千代は、かたりとお茶を置くと、しょぼんと項垂れた。

「すみません。わたくし、元々はそれなりに働けるんですけど」

「何、しょうがねぇさ。言ったろ、うちはちょいと特殊なんだ。出来なくっても気にすんな」

 千之助の言うとおり、ここは特殊過ぎる。
 一体いつの時代なんだと思わずにはいられないほど、備品の全てが古めかしい。
 が、千代はしおらしく首を振った。

「でも、このままでは折角ここを紹介してくださった課長に、申し訳が立ちません」

 全てはそこなのだ。
 自分が全く使えないなどと真砂に連絡されたら、帰った後が恐ろしい。
 お仕置きされるのなら大歓迎だが、他の部署に飛ばされたりしたら……!

---そ、そんなことになったら、耐えられないっ! 課長のお姿を毎日拝めないなんて、そんなの藤堂左近から、くまを取り上げるようなもんだわ!---

 つまり、相当なダメージだということ。

「まだ来て間もねぇんだし、そのうち慣れらぁな。慣れりゃなかなか楽しいもんだぜ」

 くるくるっと煙管を回す千之助に、千代は弱々しく微笑んだ。

「社長がそう仰ってくださると、頑張ろうって思えます。ご迷惑をおかけしないように、精一杯頑張ります」

「おぅ、頑張れよ」

 もう一度、憂いいっぱいの笑みを残して、千代は自席に帰った。
 仕事が出来なくても、とりあえずこの社長さえ押さえておけば大丈夫だ。
 社長を籠絡することに決めた千代だが、そんな邪な思いを狐姫が見抜かないわけがない。

「ちょいと研修生! 社長のお茶は、あちきが持っていくんだから。勝手にしゃしゃり出るんじゃないよ」

「あら。だって早く出さないと、温くなってしまうじゃないですか」

「何言ってんだい。お茶は丁度良い温度ってものがあるんだ。余計なことに気を回さず、あんたはやるべきことを片付けちまいな!」

「あらあら、随分口うるさいお局さんだこと。お茶汲みこそ、新人にやらせるべきなんじゃないですか? それともそれしかお仕事がないのかしら」

「何だって! ファイリング一つ満足に出来ないような奴が、でかい口叩くんじゃないよ、研修生!」

「研修生研修生って、わたくしちゃんと名乗りましたのに。耄碌する歳でもないでしょう?」

「あんた、良い度胸じゃないか! 大体あんたの会社は、名刺一つ作れないのかい? 営業だってんなら、名刺の一つや二つ、持ってくるのが常識だろ?」

「ああ、いけない。わたくし、社長にもお名刺渡してないわ」

 いきり立つ狐姫を無視し、千代は再びいそいそと千之助の机に向かった。

「社長、申し訳ありません。わたくしとしたことが、口頭だけの挨拶で、名刺をお渡ししておりませんでしたわ」

 す、と優雅な手つきで名刺を差し出す。
 ああ、と軽く受け取り、千之助は曖昧に笑う。

「別にわざわざ、いいのによ。お前さんのことは、そっちの部長さんから聞いてるし」

 課長じゃなくて部長かよ、と内心不満に思いながら、千代はささっと机を回り込んで、千之助に近づく。

「だって、社長にはわたくしのこと、もっと知っていただきたくて」

 思わせぶりに、声を潜めて言う。
 名刺だけで、何がわかるというのか。

「社長のために、頑張りますわ。見守ってくださいね」

 うるうると、瞳を潤ますのも忘れない。
 また千之助は曖昧に笑って、軽く頷いた。
 そのとき。

「社長っ!! 電話だよっ!!」

 狐姫の鋭い声が、鼓膜を破る勢いで放たれた。
 慌てて千之助が受話器を取る。

「ほら研修生! いつまでも油売ってないで、さっさと続きをおし!」

 ばしん! と扇子で机を叩き、狐姫が書類の山を指した。
 先程よりも、随分量が増えたようだ。

「ただでさえ、とろいんだから、ちょろちょろ動き回るんじゃないよ!」

「まぁ……。そもそもこんな大量なファイリング、ここのやり方でさくさく出来るもんなんですか?」

 顔をしかめて言う千代に、狐姫は綴じ紐を掴むと、鮮やかな手つきで、あっという間に和綴じ本一つを仕上げた。

「ほら。これぐらい、当たり前のことだよ。さぁ、さっさとやりな!」

 これでは文句は言えない。
 口を尖らせつつ、千代はしぶしぶ書類に向かった。
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