溺愛御曹司に囚われて

その相手が誰なのかを確認する暇もないまま、守るように背中のうしろに隠される。


「失礼。フラフラ食べ歩く彼女をつい見失ってしまってね。探していたんだ、みつけてくれてありがとう。それでは」


私はその声にハッとして顔を上げた。
後ろ姿しか見えないけれど、私がこの人を間違えるはずなんてない。

だけど、どうしてここにいるの?

私の腕を掴んだ男性に有無を言わさぬ様子でそう言われ、男が気まずそうな顔をして去って行く。

そして、私を守るようにして立っていた背の高い男性が、ゆっくりと振り返った。


「小夜。こんなところで、ひとりでなにしてるんだ?」

低く懐かしい声が私だけに向けられ、何度も思い出した焦げ茶色のあたたかな瞳が私を映している。

彼に名前を呼ばれた途端、緊張の糸が切れたように涙があふれだした。


「い、一ノ瀬(いちのせ)、先生」


私はやっとの思いで彼の名前を呼ぶ。
彼は突然泣き出した私に面喰らいつつも、鎖骨の下で切り揃えた私の髪に遠慮がちに手を伸ばす。


「小夜、髪切ったんだな。似合ってるよ」


先生はいつも、長かった私の黒い髪を褒めてくれた。
少しふわふわしていて、触るととてもやわらかいって。

一ノ瀬先生は、私と高瀬が通っていた高校の数学教師だ。
親しみやすくて授業もおもしろくて、かっこいい一ノ瀬先生はクラスの女子の人気者だった。

高瀬はなぜか彼のことが気に入らないみたいだったけど、私ももちろん先生が大好きだった。

教師として、そしてそれ以上に、ひとりの男の人として。

彼は私の初恋の人で、男の人を愛するということを初めて教えてくれた人。

彼に抱いた気持ち以上の激しい恋心を、私は未だに経験できずにいる。
そしてその強すぎる思いのせいで、私は彼を失うことになったのだ。

彼が私の手を放して以来、彼の声が私の名を呼ぶのを、本当に久しぶりに聞いた。
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