常務が、愛車である〔鮮やかな赤のメルセデスベンツ "Sクラス"〕を走らせること…15分。

何度か彼と来店したことのある、都内の高級ホテル内にあるフレンチレストランに到着する。

「行こうか。」

そう言って右腕を差し出してくる彼に、私は「はい。」と言って自分の左腕をほんの少しだけ絡ませた。

絡ませた…というよりも、"引っかけた"と表現した方が正しいかもしれない。
男性が苦手な私には、これが…今できる精一杯の行動である。


入店すると、待つことなく窓際の席に通されて…オーダーをせずともコース料理が運ばれてくる。

私以外の女性社員たちなら、店内の雰囲気も窓から見える夜景も…目の前に常務が居ることも大喜びすると思う。

だけど、私は帰りたい。

そんなこと考えながら乾杯し、食事をしながら明日以降のスケジュール確認や打ち合わせをした。

ちゃんと仕事の打ち合わせもあったのね。
それなら、来た意味はあったかな……。

でも…本番はここから。

今日も、何とかバレませんように…。


「さて、これで仕事の話は全部終わったね。」

食事の最後の一口を食べ終え、フォークとナイフをお皿の上に置いたタイミングで常務がそう言った。
その言葉を合図に、常務が(まと)う空気を変化させたのを私は察知した。

そう、“男の顔”を出したのだ。……私が苦手な“男の顔”を。

ほら、やっぱりこうなるんじゃない。
しかも、いつもより(まと)ってる空気濃いし…。本気で口説き落そうとしているのが読み取れた。

今日は本当に逃げないと、倒れちゃう予感がする…。

「…は、はい。そうですね…。」

とりあえず無言はよくないから一言返すけど、それだけで手一杯だった。

「…ねぇ、姫ちゃん。僕に触れられるのホントに嫌?僕はこんなに君が好きなのに…。まだ君は僕に落ちてくれないの?」

そう問いかけてくる声は甘い…。
そのまま手を握られ、親指で手の甲を撫でられる。

……っ!嫌だ、いや…嫌ッ!

心の中では彼の手を払い除けたいと思いながらも、何とか"パウダールームに逃げるまでは…"と自分を奮い立たせる。

「常務、約束が違います。私は先ほど申し上げたはずです。『私には絶対に触れないようにお願いします。』と。そしてあなたも、それに対して『分かってるつもりだよ。』と承諾していたはずです。」

違和感なく冷静に言えただろうか…。
いや、きっと声は震えてしまっていると思う。

バレただろうか…。

「あれは君の照れ隠しでしょ。今も、僕を叱っているように見えて声がだんだん小さくなっていってるね。恥ずかしいの?…クスッ、そんな君も可愛いね。」

その言葉を聞いて私は呆然とした。


本当にどれだけおめでたい人なの!?

"自分はモテる"と絶対的な自信を持っている常務は、言い方がよくないけど…自己完結型で自意識過剰だ。
この人は"相手を思って行動する"より、"まずは自分がどうしたいか"を考えて行動してしまうことが多い。その上、自分の都合の良いように相手の気持ちは解釈しがちである。

「姫ちゃん…。好きだよ…。」

……ハッ!いつの間に私の前に立ってるの?…油断した。

私と向かい合って座っていたはずの常務は、いつの間にか席を立ち丸テーブルの横を通って私の前に立っていた。
私が彼と食事する時に見てきた中で、一番の"熱"を瞳の奥に宿して…。

この流れ……嫌ッ!キスされる!!

私は常務と距離を取ろうと足を一歩…二歩と後ろに動かした。するとそれを阻止するかのように、常務に手首を掴まれる。

……はっはっ。

まずい…。過呼吸の発作出そう。

「待って!僕から逃げないで、姫ちゃん!」

もう無理!

私はギュッと目を瞑り、彼を力いっぱい押し返したり顔を背けたり…とにかく必死に抵抗して見せた。

だけど、やっぱり男性の力には敵うはずもなくて………。


――誰か、助けて……。


この場に、助けてくれるような知人が運よく居合わせるわけがない。

それを分かっていながらも、私は心の中で「誰か助けて!」を呪文のように繰り返した。


「…嫌ッ!離して!」

常務の顔が迫ってくる焦りと恐怖で、体が強張った。

極限状態の時、人間は本当に理性ではなく本能で動くものだと思う。

パシン!

乾いた音が響いた。

完全に無意識だった。

彼が迫ってくる気配が無くなり、私の手首を掴んでいた力も緩んで…代わりに歯を食いしばった声が微かに聞こえてきた。

ギュッと瞑っていた目を開けてみると――。

赤くなった左頬を押さえて、固まっている常務の姿が目に入る。

あぁ、そうか。
常務の頬を思いっきり引っ叩いてしまったんだ。

やっちゃった…。ごめんなさい、常務…。

でも、パウダールームに駆け込んで専務に連絡するなら…彼が固まってる今しかないかもしれない。

私は、反射的に常務から距離を取った。
そしてパウダールームに駆け込もうと一歩踏み出そうとしたけど――。

はっはっ、はっはっ……。

呼吸が乱れているせいで、足が(もつ)れて倒れてしまう。

あぁ、ダメかも……。
歩けそうないし、体も(かゆ)くなってきた気がする。

「…あ。姫ちゃん、どこ行くの!?」

後ろから問いかけられるけど、もう返答できないほど呼吸が乱れていた。


せめて、専務の連絡先だけ表示させておいたら……。

お願い!誰か気づいて……。


「お客様!?大丈夫…ではないですね…。救急車!」

レストランの従業員さんのそんな声が…遠くで聞こえた気がした――。


**


――温かい。誰だろう?

「…ん。」

「雅ちゃん?…雅ちゃん。分かる?…私よ。」

目覚めると私は病院のベッドに横になっていて、花森先輩に手を握られていた。
サラリと見回すと、どうやら今回は個室のようだ。

"温かい"と思ったのは…花森先輩が手を握っててくれたからだったんだ。

「花…じゃなかった。(かなえ)先輩ありがとうございます、ずっと付いてて下さったんですね。ここ…病院ですよね?」

花森先輩が、関係性が馴染んできた頃に「プライベートでは下の名前で呼んでほしいな、名前で呼ばれる方が好きなの。」と言うので、それ以降は仕事が終わると“叶先輩”と呼んでいる。

「そうね。ここが【どこで】、私が【誰か】が分かるなら、意識ははっきりしてるわね。よかった~。ひとまず先生方呼ぶわね。」

叶先輩はニッコリ笑ってくれた。

人の笑顔を見ると安心する……。

そして彼女は、私の主治医である白石 (しらいし) (なぎさ)先生と本条 (ほんじょう) (しのぶ)先生を呼んでくれた。

「すぐ来てくれるそうよ。」

「さすが白石先生と本条先生。…何かホッとしますね。」

「そうね。」

私は、叶先輩と顔を見合わせて笑った。