元教え子は現上司
歓迎会の夜に
「はいじゃ、あらためて、ひぃちゃんおめでとー!」

 フカミンが大きな声で言って、ビールが注がれたジョッキをイェーイ、とぶつける。
「おめでとー!」
 ユナも続く。二人ともけっこうな勢いでジョッキをぶつけてくるから、碧のグラスからビールの泡がぼたっと零れてグラスをつたう。
「おめでとうって?」
 あと、ひぃちゃんて自分のことだろうか。予備校でも、生徒からひさまっちゃんと呼ばれていたので、あだ名で呼ばれることにあまり抵抗はないけれど。でも一般企業って、名字呼びが普通なんじゃないだろうか。
「そりゃー、こんなイケメンたちに囲まれて仕事できておめでとーってことだよ」
 決まってるじゃ~ん、とフカミンが笑う。ユナが隣から、
「あと~、こんなカワイイ女の子と一緒にお仕事できて癒されるでしょー? おめでとーひぃちゃん」
 碧がなにも言えず黙っていると、
「あ、注文いいですか」
 隣で黙ってメニューを見ていた暁が、通りがかった店員に声をかけた。誰にも確認せず、サラダはこれ、あと焼き魚と、枝豆と、この豆腐ってなにがかかってるんですか? じゃそれも、とサクサク決めていく。フカミンとユナはメニューには目もくれず、お通しの小鉢を猛然と食べている。きっといつもこんな感じなんだな、と想像できた。

 ピンポーン、とお客さんが押した呼び出しベルの音。店員さんがはいっと答える。笑い声。どよめき。グラスの触れ合う音。厨房で店員さんが壁にかかった伝票を見ながら中華なべをひっくり返してる。
 よくある居酒屋の光景。そのなかに、いるはずのないひとがいる。

 お酒飲むとこ見るの、はじめてだ。

 上下する喉元につい目がいく。記憶の中の彼はもっと細い首をしていた。首だけじゃない。黒い腕時計がはまっている手首と指先。一日の終わりだからか、少しだけ髭が生えかかってる顎。
年齢を重ねてるんだな、と実感した。

 あれからこの子のことを何百回、何千回おもっただろう。傷だらけの猫のように、心がとても繊細だった時期もあったけど、時間は静かに淡々と自分たちを進ませていた。

 数年前と数ヶ月前と数日前と昨日とさっきが続いて今を作っている。数え切れないくらい何度も水が落ちて徐々に形が変わっていく遺跡のように、積み上げた年月を感じてふしぎな想いに満たされる。切なくもあり、苦くもあり、けれどふしぎと嫌な気もちじゃないと思うのは、碧もそれなりに歳を重ねたからだろうか。

 それにしても全然楽しそうに見えない。淡々とビールを飲み、小鉢をつつく。フカミンが強引に開いてくれた歓迎会だけど、本当は来たくなかったんだろうな。そう考えて、心の奥が鈍く痛む。

 ふと、ビールのペースは早いけれど、暁は小鉢の先をつついてばかりで箸が進んでないことに気がついた。自分のテーブルに置かれた小鉢を見る。タコを酢と豆で和えたもの。
 あぁ、そっか。

「苦手だったね、タコ」
 小鉢を見つめたままおもわず呟くと、暁がサッとこちらを振り返った。

 あ、まずい。
 慌てて正面のフカミンとユナを見ると、二人は早くもジョッキを空けそうな勢いでビールを飲んでいて、気がついてないようだった。
 暁がこちらを見ているのを感じる。顔が見たいような、見たくないような。葛藤は一瞬で、そっと振り返る。

 小鉢の上に置かれた箸。暁の指先が唇をつねっている。イライラしている時の癖と一緒に、こちらを睨むような眼差し。

「なんでそんなこと覚えてるんですか」
 低い声にビクッとなる。なんでって、そんなこと言われても。
「んー? どしたの二人とも」
 空のジョッキをテーブルに置いてフカミンが首を傾げる。暁はふっとため息を吐くと、なんでもないです、と小さな声で答えた。

「お待たせしました~」
 白い半被を羽織った女の子の店員が、サラダと枝豆を持ってくる。店員の向こうで、数人の男女が隣の席に座った。喋り声が聞こえてくる。
「この間の子たちどうだろう、入るかなぁ」
「理系進学クラスだっていうし、受講するんじゃない」
「それよりさ、国立クラスがそろそろ埋まりそうだって」
 なつかしい類の会話。おもわず顔を向けて。

「――――!」
 息が、とまった。
< 14 / 86 >

この作品をシェア

pagetop