元教え子は現上司
ガタン。
グラスが手から滑ってテーブルで倒れた。並べたばかりの皿の下にビールの水たまりが広がる。液体がバタバタとテーブルの縁から落ちていくのを、ぼんやりと見ていた。
「キャー! ちょっとなにやってんのっ」
ユナが騒ぐ。フカミンが身を乗り出した。
「オシボリで拭こう。あ、店員さんすいませーん」
隣の席の人たちの視線が集まるのがわかる。碧は反射的に下を向いた。
「あれ? 久松さん?」
誰かが言った。びくん。体が馬鹿みたいに大きく痙攣した。心臓が耳の中で鳴ってる。顔、見れない。手元のオシボリをギュッと握りしめる。
「知り合いですか」
すぐ隣から声がする。なんでずっと黙ってたくせに、こういうときには話しかけるのよ。
声に押されるようにして顔を上げる。隣のテーブルから、興味深げにこっちを見ている五人の男女。
ああ――やっぱり。
碧が半年前までいた職場の同僚たちだった。
「ひさし、ぶりです」
なんとか声を出す。奥から店員が小走りに走ってきた。大丈夫ですよ、やりますよー、と言ってテキパキとオシボリでテーブルを拭いていく。
お洋服大丈夫でしたか? 平気ですーとフカミンが答える。
五人の集団の中の、同い歳くらいの女性たち――たしか数学を担当していた二人だ――が身を寄せ合い、なにか囁いた。びくん。また体が痙攣する。自分でもあきれるくらい過剰な反応。でも止められなかった。
残像が頭の隅で揺れる。囁く声。こちらを見て声をひそめる人たち。
「久松さん、今なにしてるの?」
別の一人が身を乗り出す。周りの女性たちが言う。
「突然辞めちゃったから、心配してたんだよ」
ねー、と隣の子が頷く。こちらを探るように見る視線。その視線が好奇心と嘲笑に直結していることを知ってる。ゆるゆると碧を取り囲む噂話。
明日から来なくていいから。
あのときの声が頭の中でぐるりと再生される。
気がついたら立ち上がっていた。
笑え、と自分に命じる。
碧は口角を引き上げて言った。
「用事あったの思い出しました。すみません、帰りますね」
テーブル中の視線が集まってるのを感じながら、お疲れさまです、と頭を下げる。挨拶することで、働いてることを匂わせた。
こんなときにそんなことを考えてしまう自分が死ぬほどいやだ。
かつての同僚たちとすれちがう。すれちがいざま、誰かが言った。
「あの人は知ってるの?」
碧はなにも言わずに店を出た。
グラスが手から滑ってテーブルで倒れた。並べたばかりの皿の下にビールの水たまりが広がる。液体がバタバタとテーブルの縁から落ちていくのを、ぼんやりと見ていた。
「キャー! ちょっとなにやってんのっ」
ユナが騒ぐ。フカミンが身を乗り出した。
「オシボリで拭こう。あ、店員さんすいませーん」
隣の席の人たちの視線が集まるのがわかる。碧は反射的に下を向いた。
「あれ? 久松さん?」
誰かが言った。びくん。体が馬鹿みたいに大きく痙攣した。心臓が耳の中で鳴ってる。顔、見れない。手元のオシボリをギュッと握りしめる。
「知り合いですか」
すぐ隣から声がする。なんでずっと黙ってたくせに、こういうときには話しかけるのよ。
声に押されるようにして顔を上げる。隣のテーブルから、興味深げにこっちを見ている五人の男女。
ああ――やっぱり。
碧が半年前までいた職場の同僚たちだった。
「ひさし、ぶりです」
なんとか声を出す。奥から店員が小走りに走ってきた。大丈夫ですよ、やりますよー、と言ってテキパキとオシボリでテーブルを拭いていく。
お洋服大丈夫でしたか? 平気ですーとフカミンが答える。
五人の集団の中の、同い歳くらいの女性たち――たしか数学を担当していた二人だ――が身を寄せ合い、なにか囁いた。びくん。また体が痙攣する。自分でもあきれるくらい過剰な反応。でも止められなかった。
残像が頭の隅で揺れる。囁く声。こちらを見て声をひそめる人たち。
「久松さん、今なにしてるの?」
別の一人が身を乗り出す。周りの女性たちが言う。
「突然辞めちゃったから、心配してたんだよ」
ねー、と隣の子が頷く。こちらを探るように見る視線。その視線が好奇心と嘲笑に直結していることを知ってる。ゆるゆると碧を取り囲む噂話。
明日から来なくていいから。
あのときの声が頭の中でぐるりと再生される。
気がついたら立ち上がっていた。
笑え、と自分に命じる。
碧は口角を引き上げて言った。
「用事あったの思い出しました。すみません、帰りますね」
テーブル中の視線が集まってるのを感じながら、お疲れさまです、と頭を下げる。挨拶することで、働いてることを匂わせた。
こんなときにそんなことを考えてしまう自分が死ぬほどいやだ。
かつての同僚たちとすれちがう。すれちがいざま、誰かが言った。
「あの人は知ってるの?」
碧はなにも言わずに店を出た。