それは、一度終わった恋[完]
自分でも、学生が住むには随分と生意気なマンションに住まわせてもらっていると思う。
昼休みに聞いたいのまりこと井上麻里さんの話が頭から離れない。彼女とは同じサークル仲間だったけど、あまり話したことがなかった。
モヤモヤとした気持ちのままカードキーを差し込んで、セキュリティの抜群な重たいドアを開けて部屋に入った。
文化活動を職業にするというのは、本当に困難なことだ。
漫画や小説一本だけでちゃんと食べていける人なんて、一体どれだけの倍率なんだろう。
重たいコートをハンガーにかけて、私はソファーに深く座った。
春からは、親の会社で事務を手伝いながらほそぼそ漫画を描くことになっている。父親はわりとデカい印刷会社の社長で、私は随分と楽な暮らしをさせてもらっていると思う。きっと私は、〝人生イージーな人間〟とやらに分類されるのだろう。そう思われるのも無理はない。分かっている。
「あー描かなきゃ」
今はそんなしょうもないことで悩んでいる暇はない。
新しい連載のネームがなかなか進んでいないのだ。
今までずっと少女誌で活動していた私が、少し大人向けの落ち着いた雑誌で連載をもつことになった。今のところ3回で終わる予定の連載だけど、好評だったら正式に連載が決まる。
「今だからこそ、とろける恋をしよう」というキャッチコピーのこの雑誌は、アラサーの女性を中心にじわじわと人気を博してきている。
もしここで連載をもてたら、私の活動範囲はかなり幅広くなる。私にとっても大きな勝負所。それなのに、このタイミングでまさかの産休で担当さんが入れ替えになった。
そしてまさかの元彼が担当になるという全く望んでいないアンラッキーイベントが発生したわけである。
「ぐあー思い浮かばない!」
今回の特集は「あの時の恋にけじめをつけよう」というハッキリとした潔いテーマである。
未練が残っているということは、きっとどうすることもできない別れ方をしてしまったのだろう。ヒーローのためを思って別れた理由があったり、ロミジュリ的な運命だったり……だめだ、どれもどこかで読んだことのある設定しか思い浮かばない。それに、大人の女性の恋愛、というのがどういうものなのかそもそも想像がつかない。
私は机に頬をくっつけて、シャーペンの芯を出したり引っ込めたりを繰り返した。
「そもそも自分の恋愛にすらけじめのついてない私に一体何が描けるって……」
色んなことが重なって、もうどうしようもなくて逃げるように別れを選んでしまった過去がある私に、けじめをつける強い女性なんて描けるだろうか?
不安になったその時、トレース台の上でスマホが震えた。ヤバイ、佐々木さんからの進捗どうですか電話に違いない……私は恐る恐るスマホに手を伸ばしたが、画面には元彼の名前が表示されていた。
そうだった、もう担当さんは変わってしまったのだった。