Trick or Love?【短】
or
人生には、思いもよらないことに遭遇する時というのが必ずある。

“その”程度は様々だけど、三十年近く生きていればそんな経験だって嫌でも積まされていくもので、社会に出てから身に付けた処世術で何とかできることも増えた。
ただ、そんなものではどうすることもできない瞬間ももちろんあって、そんな時は為す術もなくただ立ち尽くすことしかできなかったりもする。


そう……。
例えば、今この瞬間のように――。





「……これは何の冗談?」


今の状況を理解できないながらも零した言葉は、あっという間に静寂に飲み込まれてしまった。こうして声を出せるまでに随分と時間を要したのに、何とも呆気ない。


背中には、資料室のひんやりとした壁の感触。先週おろしたばかりのカーディガン越しに感じるその温度は、自分の体と無機質な壁との距離がゼロであることを物語っている。


目の前にいるのは、間違いなく同期の男。大学を卒業して就職した会社で出会った私達は、入社した時から同僚として適度な距離で過ごして来たはず。

それなのに……。
私と彼との距離はただの同僚には必要のないほどに近く、もっと言えばお互いの呼吸すら肌に感じている。


私の顔の左側の壁には目の前にいる男の右手が置かれていて、彼の重心がその手に傾けられているから私の右側は空いているけど、逃げられるだけのスペースは残されていない。


確か、ドラマでこんなシーンを見たことがある。

いつからか流行っている、これ。
所謂、“壁ドン”というもの。

まさか自分が、しかも同僚にこんなことをされるなんて思ってもみなかったけど――。

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