「驚かせてごめん」

「いや、こちらこそ起こしたか?」

 私は静かに首を横に振った。なにか話さなければ、と思いつつ言葉が出てこない。誰と会っていたとか、仕事のこととか聞いてもきっと分からない。安っぽい労りの言葉しか浮かんでこない。

「……おかえり」

 あれこれ考えて結局、それしか口に出せなかった。続きがあるのかと思ったのか、彼は黙ったままこちらを窺っている。おかげでなんだか恥ずかしくなった。

「ごめん、それだけ」

「晶子」

 慌ててドアを閉じようとしたところで名前が呼ばれた。おかげでドアの角度が中途半端なまま再度、彼に視線をやる。

「ただいま。明日は約束どおり早く帰ってくるから」

「あ、そんなつもりじゃ……」

 どうやら明日のことを心配して顔を出したと思われたらしい。これじゃ彼と映画を観るのをすごく楽しみにしているみたいだ。なにか言い訳しようと思ったが、それよりも先に彼が続けた。

「また明日。おやすみ」

 なんでもないかのように、そっと頭を撫でられて私は固まってしまった。深夜の廊下に彼の声はよく通る。

「うん、直人もおやすみ」

 私は素直に返事した。すると彼は目を白黒させて、しばらくこちらを見ていた。その視線を受けながらゆっくりとドアを閉じる。

 たったそれだけ、話とも言えないほどの短いやりとりだったけど、なんだか気持ちがくすぐったい。思えば、私が彼の名前を呼んだのは、このときがはじめてだった。