たった一度のモテ期なら。
俺だって、キスぐらい、なかったことにするのは簡単なはずだった。

なのに隣の二課に来ているあいつの声を、耳が勝手に拾ってくる。こないだ陰口を叩いてた先輩とも何事もなかったようににこやかに話しているのが聞こえて、いいのかよそれでって口を出したくなる。

新しい経費処理のやり方を教えているらしく、二課の男達とやり取りしている姿をいつのまにか目が追いかける。PCやスマホを一緒に覗き込んでいるから、必然的に距離感が近いってことまで。

「影森さん、こっちには来ないな」

隣の先輩に声を掛けられてハッとして、目線を目の前のPCに戻して何気なさそうな声をよそおう。

「二課だけ関係するプロジェクトみたいですよ」

「富樫さんじゃさすがにお前も敵わないか。チョコはあっちに流れてんのか」

「安物は食わないんじゃないですか、貴公子は」

女の子がくれたらなんでも食うだろ、と先輩は笑う。それはそうかもな。



俺のデスクにはあれ以来、影森は一歩も立ち寄らない。

社内ですれ違うときの笑顔も心なしかぎこちなく、どこか警戒されてるのがわかる。頑張っていつも通りに振る舞おうとしているって雰囲気だ。

ただの同期って言い張ってた男に急に襲われかけたらな、油断しないようにするのは当然か。それでも許そうとしてくれているんだろう。


俺の方は、約束通り何もなかったように普通にするようにした。見かければ普段通りに声を掛けるし、前に頼まれたデータの件を尋ねたりもする。

ただ距離は詰めない。もちろん以前のように気軽に頭を叩いたり、肩に触れたりはしない。

偶然近づいただけであいつが身体を固くするのがわかって、今までどれだけ気軽に接していたかに逆に気づく。成長していない嫉妬心に振り回されて、自分が何を失ったかにも。



何もなかったことにはお互いできていない。

あいつと俺の理由はたぶん、逆だけど。

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