幽霊と私の年の差恋愛
二十時を回った。
フロアに残っている社員の数も少しずつ減り、何人かがパソコンのキーを打つ音だけが静かな空間に響いている。
そんな中、自分の仕事が終わった愛佳は美波が帰ってくるのを待っていた。
「あれ……まだいたの……?」
不意に横から声をかけられ、愛佳ははっとして顔を上げた。
「まだいたの、じゃないでしょ……あんたを待ってたのよっ」
午後の業務開始ぎりぎりで戻ってきた美波は、すぐに部長に呼ばれ、そのまま他部署への用事を頼まれたきり戻ってこなかった。
ことの結果を聞きそびれた愛佳は、やきもきしながら美波の帰りを待っていたのだ。
「あ、ああ……そうだったね……」
ごめん、と謝る美波は、まるでそんなことは忘れてたと言うかのようだ。いや、実際に忘れていたのだろう。愛佳はがっくりと肩を落とす。
「どうする? もう上がる?」
とりあえずここで話すことではないと、愛佳は退社を促す。美波も頷き、机を片付けて周りの社員に挨拶すると、二人はそそくさとフロアを後にした。
「……でさ、美波。今後のことなんだけどっ」
社員ゲートを抜けてビルの外に出たところで、愛佳は意を決したように口を開いた。対する美波は、惚けたように前方を見つめていた。
「っ……」
美波の視線の先を追い、愛佳は一瞬ぎょっとした。
男がいた。
雨に濡れ、全身から雫を滴らせている。その肌は白を通り越して青く、およそこの世のものではない。
ゾッとするような冷たく暗く濁った瞳で、愛佳に一瞬目をやった。
「真糸さん……」
しかし当の美波は、安心したように微笑んでいた。今日一日ぼんやりとしていた彼女が見せた、唯一の表情だったかもしれない。
「お疲れ様、美波ちゃん」
男がゆっくりとこちらに近付く。間近で見るその顔はゾッとするほど端正で、やはり背中に冷たいものが走る。
「あ……美波、新しい彼氏?」
愛佳は男から目を離さないまま、そう問うた。一瞬きょとん、とした美波が何か話し出す前に、男の剣呑な瞳が鋭さを増す。
「あ、なんだ、そうなの。新しい彼が出来たなら教えてくれれば良かったのにっ。じゃあ、ちゃんと相談するのよ? ……あ の コ ト」
それだけ早口で告げると、じゃあねと手を振ってから傘を広げる。そのまま振り返らず、愛佳は美波達とは反対方向の帰路についた。
「愛佳、真糸さんのこと見えるんだ……」
愛佳が去っていった方を、美波はやはりぼんやりした眼差しで見つめる。
「……ねぇ、彼女が言ってた『あのコト』って何?」
真糸の質問に、美波は「何だっけ?」と一瞬思案するもーーー。
「ああっ! 結果伝えるの、忘れてた……」
彼女のあの口ぶりだと、恐らく悪い方に考えていることだろう。
「大丈夫だったって、すぐ言えばよかった……」
自身の質問に答えない美波に、真糸はややイラついたように切り返す。
「ねぇ、人の話聞いてる?」
「あ、ご、ごめんなさい。……何でもないの」
結果大丈夫だったわけだし、わざわざ真糸に言うのも気が引ける内容だ。
「ふーん……そう」
そう言って、真糸は駅の方に向かい歩き出した。深く追求されなくて良かった、と思ったところで、美波はようやく真糸の雰囲気がいつもと違うことに気が付く。
「あの、真糸さん……何かありました……?」
どこか不機嫌そうな真糸に、美波はおずおずと尋ねる。答えはない。小雨とはいえ濡れている真糸に傘を差し出そうとするも、早足で歩く真糸に追いつくのが精一杯でとても傘の中には収まってくれない。
早足のまま駅につき、電車に乗る。
不思議なことに、真糸は改札に止められることなくスルーすることが出来る。人には見えていても、機械は感知しないのだ。
満員の電車にすし詰めにされ、美波と真糸は二駅隣のアパートがある駅まで向かう。
「美波ちゃんには、僕が何に見える?」
黙っていた真糸が突然口を開いた。質問の意味を考えるも、彼の意図は分からない。
「えっと……真糸さんは、真糸さんです……」
美波の答えに、真糸は口元だけの笑みを浮かべた。
「そう……いや、ごめん。考えても分からないことがあると、イライラしてしまう性分でね」
そう言って少しだけ表情を緩めた真糸に、美波はほっとする。しかしそれも一瞬で、彼は再び暗い顔で俯いた。
「自分が分からなくてね」
真糸は呟く。
「霊体になって、自分は死んだんだと諦めが付いたつもりだった。でもこうやってだんだん……生きていた頃の感覚を取り戻していく」
美波はただ黙って真糸の言葉を聞く。
「でも……僕は生き返ったわけじゃない……。僕を見るみんなの目は恐怖に染まっている。じゃあ、僕は何者なんだ?」
何と言っていいか分からず、しかし真糸の苦悩は痛いほど感じた。
立ち止まった真糸に、美波は傘を差す。
「美波ちゃんが体調を崩しているのも、僕の影響なんじゃないかな」
「そんなっ……」
堪らず否定しようとするも、その根拠はない。言葉は続かず、ただ雨が傘に跳ね返る音が響いた。
「美波ちゃん、やはり僕はーーー……」
そこで真糸は言葉を切り、何かを気にするように周りに目を向け始めた。
「真糸、さん……?」
続く言葉を覚悟して待っていた美波は、不自然に言葉を途切れさせた真糸に不安げな声を上げた。しかし真糸はそれに答えず、やはり周囲を警戒するように見渡している。
(誰かに、後をつけられている……?)
相手の姿は見えない。しかし、すぐそばにいる。
「……美波ちゃん、ちょっとここで待ってて」
「えっ? あのっ……」
美波が引き止める声より早く、真糸は元来た道を駆け出す。
(この角を曲がればっ……)
真糸は確信していた。この先に誰か、いる。
「なっ……君は……」
真糸が消えていった方向に、美波は気を取られていた。
だから、気付かなかったのだ。
傘に響く小雨の音に紛れて、忍び寄る別の気配にーーー。
「こんな所に……いやがったのかよ」
「っ……!?」
地を這うようなざらついた声が、美波の肌を冷たく撫でた。こんな声の持ち主は一人しか知らない。
「しょ、う……」
一瞬にして、喉がカラカラに乾いて張り付く。
(少しでも動いたら殴られるっ……)
まるで銃を向けられたかのように、一歩も動けずに身体を硬直させる。
「……もう……良いでしょ……私に構うのは止めてよっ!!」
身体は動かないのにーーー。
「ふざけないでよっ……いい加減にしてっ……」
口からは攻撃的な言葉が勝手に飛び出す。
これ以上は駄目だ。刺激してはいけない。
分かっているのに、一度開いた口は留まることを知らず、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「あんたって最っ低……犯罪者じゃない……あんなことして、自分がどうなるのか分かってるのっ……!?」
愛情はないけれど、情はある。そう思っていたことさえ今は懐かしい。今は背後に立つこの男に、憎悪の感情しかない。
「あんたさえいなければっ……あんたさえっ……!!」
身体に染み付いている、何度も与えられた痛みが背中に走った。その衝撃で身体が吹き飛び、美波は濡れた地面に倒れ伏す。
顔だけ上げて振り返ろうとすると、後ろから髪を掴まれて乱暴に後ろを向かされた。
まず目に飛び込んだのは、やはり赤い瞳の蛇だった。
「くっ……や、め……」
美波の目が、恐怖で見開かれた。
蛇のすぐ真横で街灯に照らされて怪しく光るそれは、鋭利な切っ先を美波に向けていた。
(ああ……死ぬんだ、私)
結局、死ぬ運命だったんだ。その方が良いんだ。
(あの時、私が抵抗しなければ)
彼は、死なずに済んだのにーーー……。