幽霊と私の年の差恋愛
夢を見た日



「いらっしゃい、ま……せ……」


驚きのあまり減速していく声に、客の男は小さく吹き出した。

狭い店内には、数人の客が酒とビリヤードを楽しんでいた。心地良いジャズと、キューが手玉を突く乾いた音が響く。

その様子を、背の高い観葉植物が静かに見守っていた。


「やぁ、久しぶりだねハル。いつもの、お願いするよ」


バーテンダーでありマスター、桜沢春臣は、入店した客を認識して思わずボトルを取り落としそうになった。

他の客が入ってきた人物を一瞥し、ぎょっとしたような顔で道を開けた。

その客は当然のように一番奥のカウンター席に座る。

知っている人物のはずなのに、春臣にはそう思えなかった。彼はこんなにも蒼白い肌の持ち主だっただろうか。なにより、アッシュの瞳はこんなにも濁っていただろうか。


「……どうぞ」


それでも、彼の求めるカクテルを春臣は知っていた。思考は停止していたが、身体が勝手に動いてそれを作り出す。


「ハルのホットバタードラム、美味しいんだよねぇ」


懐かしむように告げるこの男は、紛れもなく死んだはずの親友ーーー。


「真糸……なのか?」


確認するように声をかける。


「ああ、また会えて嬉しいよ、ハル」


温かいカクテルを一口啜り、真糸は春臣を見つめた。


「真糸……」


頬に何かが伝わる感覚がして、春臣は慌ててそれを拭った。

涙を流すのは、真糸を失った時以来だった。


「やっばいなぁ……夢……? 俺……疲れてんのかなぁ……」


涙を乾かすように目を瞬かせる春臣に、真糸は苦笑する。


「そうかもしれないねぇ。人って、疲れると幻覚見えるから」


そう言ってまた一口、カクテルを喉に流す。真糸もまた、せり上がりそうになった熱い塊をそれで何とか抑え込んだ。


「幻覚ついでに幻聴もたっぷりお見舞するよ。どうして今こうなってるのか、興味あるだろう?」


医学を齧った人間としてねーーー。




















「……信じられないな。非科学的すぎて、」


春臣は真糸から語られた一連の話を聞き、深くため息を漏らす。それと同時に、「やはりあの時のゲームは真糸が噛んでいたのか」などと考える。


「だよねぇ。僕もはじめは困惑したよ。しかし実際に身をもって体験しているんだ」


真糸はバースツールでくるくると回転しながら眉間を揉む。その姿は生々しく、生前の彼が考え事をする時の仕草そのままだ。決して『幻覚』などでは片付けられない。

しかし彼の生気のない顔色と瞳は、生きていると呼ぶには甚だ違和感があるほど冷たく澱んでいた。生前を知る者にとっては、あまりにも本来の彼とはかけ離れている。


「ねぇ、医師免許を持つ君の見解、聞かせてくれない?」


真糸は回転を止めると、真剣な表情で春臣を見つめた。

しかし、春臣は険しい顔で首を横に振る。


「いや……医師免許があると言っても、俺は真糸みたいに院に残って研究したわけでもない。たった数年臨床医として働いただけだ。何も分からないよ」


ごめん、と俯く春臣。しかしふと、ある可能性に気付く。


「そうだ……栞ちゃんなら」


真糸が訝しげに眉を顰める。


「栞……? 彼女は研究室を辞めて夜の仕事をしてるんだろう? 君と交際してるいることも知っていると、さっき話したはずだよ」


春臣は何かを考えるように顎に手をやる。


「真糸……君の研究はたしか『生体の意識』に関するものだったよね……」


真糸は頷く。


「ああ、しかしその観点から考えても、意識が実体化することなんてとても証明は……。今後どうなっていくかも未知数だ。それに、『佐伯愛佳』や『リト』という少年に関してもね」


春臣はやはり、何かを考え込んでいるようだった。


「ハル……?」


黙り込んでいた春臣は、真糸に促されておもむろに口を開く。


「栞ちゃんが最近交流している人物なんだが……秋中雄一という男に、心当たりはあるかい?」


真糸は頭の中で、記憶の引き出しを漁る。白髪混じりの、初老の男がさして苦労もせず思い浮かぶ。

「ああ。T大で生物学を教える教授だ。クローン技術研究の第一人者として、その道では有名だよ。……その男と栞が、何故?」


真糸に促され、春臣は言い難そうに話を続ける。


「うん……彼女の仕事は知っての通りなんだけど、その男が、彼女の太客らしいんだ。アフターも頻繁で、ここに飲みに来たこともある」


春臣の話を、真糸はカクテルを口に含めながら聞く。


「その時にね、少しだけ話しているのを聞いたんだけど……。その秋中って男は最近、クローンへの記憶移植なんかを研究してるらしいんだ」


クローンへの記憶移植ーーー。


「つまり、クローンで生まれた生体に、オリジナルの記憶を移植するって事らしいんだけど……T大は国立だからね、予算がなくてあまり進まないって秋中は栞ちゃんに愚痴を言っていたんだ。その話を、彼女は前のめりになって聞き入っていたよ」


真糸は無意識に、眉間を指で揉む。秋中の研究の詳細を知っているかもしれない彼女なら、たしかに今回の事象について何か所見を述べることができるかもしれない。しかしーーー。


「いや……栞には、僕のことは伝えないでくれ」


彼女はもう、自分に恋愛としての気持ちはない。それでも自分がまだ完全には消滅していないことを知れば、動揺し、痛める必要のない胸を痛めるだろう。

それが真野栞という女性だ。


「まぁ、真糸がそういうなら、栞ちゃんには黙っておくよ。それに君には、今は美波さんがいるしね?」


それを聞き、真糸は思わず苦笑いを浮かべた。


「いやぁ、彼女には大人気ない態度を取って困らせているよ」


現在進行形でね、と頭を搔く真糸。


「それに、彼女とは生きた人間と地縛霊の関係だからね。それ以上にも以下にも、なっちゃいけないんだよ」






『勘違いじゃ、ないですから……』



あの日、口付けを交わした彼女が呟いた言葉を思い出す。夕焼けの橙が、潤んだ瞳に反射していた。



煽情的な光景を、真糸は咳払いを一つして振り払う。


「とにかく、彼女とはそんなんじゃないんだ」


否定の言葉を並べる真糸に、春臣はそれ以上聞くのを止める。


(話を聞いている限りは、お互い″それ以上″を求めているように感じるけどねぇ)


自覚がないわけではないのだろうがーーー……。様々な事情を鑑みれば、決して浮かれるような恋愛ではないのだろう。


「さて……頭も冷えたことだし、戻ろうかな」


立ち上がり、真糸はしばし動きを止める。


「真糸……? どうかした?」


やがてぎこちなく動かされた真糸の両掌は、開かれたまま天を向いた。


「僕、お金持ってないんだよねぇ……ツケにできるかな、友人のよしみで」


その仕草に、やはり真糸は真糸なのだな、などと春臣は不思議な懐かしさに口角が上がった。

返事の代わりに、一つ小さく頷く。


「参ったなぁ。金の切れ目が縁の切れ目っていうでしょ? 友人の店とはいえ、ツケだなんてねぇ」


天を仰ぐ真糸に、春臣はひとつだけ確認する。


「……また、来るんでしょう? ツケを払いに」


その言葉に、真糸は困ったような笑みを浮かべる。


「うーん、絶対とは言えないのが申し訳ないが……。僕がこの状態のままなら、いずれ」


そして真糸は、カウンターに背を向けた。


「僕が栞に会うことはないが……ハルは何か聞き出せそうであればそれとなく探っておいてくれ。それをまた聞きに来るよ」


そう言い残して、真糸は店をあとにした。









「栞ちゃんは、まだ君のことを想っているんだよ、真糸……」


ドアが完全に閉まったあと、春臣はぽつりと呟く。

栞の気持ちが未だに真糸へと向いていることは、自分への態度を見れば一目瞭然だった。


「……なんて、真糸には言えないけどね」


そんなことを伝えても、二人が寄りを戻せるはずがない。それならばまだ、美波という別の女性に気持ちを向けていてくれた方がましだ。

それが同じように、絶対に結ばれるはずのない二人でも。


「すみませーん。カルアミルクとジントニック、二つずつお願いしまーす」


先程からずっとビリヤードを楽しんでいる、男女四人のグループから注文が入る。


「はい、かしこまりました」


春臣は一度思考を中断し、仕事に集中することにした。












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