君のいた時を愛して~ I Love You ~
 俺が目覚めると、サチが朝食を作っていた。その見慣れた光景に、俺は心の底から安心した。
 不覚にも、一週間近く寝込んでしまった俺の今日は職場復帰の日という事もあり、サチが作ってくれている朝食も病人食、栄養食から普通の朝食に変わっていた。
「おはよう、コータ」
 起き上がった俺に、サチが声をかけてきた。
「おはよう、サチ。なんだか、身体が重いな・・・・・・」
 正直な感想だった。たぶん、十数年ぶりに高熱を出したせいで、熱が下がった今でも他人の体の中に入っているような感じがする。
「すごい熱だったからね。だから、身体がまだもとに戻ってないんだよ」
 サチは言うと、俺の前に卵料理とタコちゃんソーセージの載った皿を見せた。
 俺にはない高等な技術だ。
 じっと見つめる俺の事をサチが覗き込む。
「もしかして、タコちゃんソーセージ嫌い?」
 サチの問いに、俺は頭を横に振って見せる。
「いや、俺も何度か挑戦したことがあるんだけど、こんなに可愛くできたことなくて・・・・・・」
 俺の言葉に、サチは意外そうな表情をして微笑んだ。
「大丈夫。コータが作れなくても、今度からは私が作ってあげるから」
 サチの笑顔は、いつ見ても清々しい。
 出会ったあの日、この世の終わりのような瞳をしていたサチと同じ人間には見えないほど、サチは明るく、コロコロと良く笑った。そして、あの時は目にも痛々しかった痣は、もはや一つもない。
 まあ、それは当然だ。ここにはサチに危害を加えるような人間はいないし、俺もそんなことはしない。
「コータ、じゃなかった。鰆(さわら)はまっすぐスーパーに入るの?」
 サチはすっかり魚の名前が気に入ったらしく、時々、俺の事を鰆と呼んでみたりする。
「ああ、今日は、一度帰って休んでから仕事に出るよ。一日働ける自信がないし」
 俺の言葉に、サチは少し心配そうな表情を浮かべてパンを更に載せ替えた。
「ねえコータ、私、定食屋さんの方のお仕事に入れないかな?」
 サチの言葉に、俺は朝食の席に移動しながらサチの事を見つめた。
 サチは以前もスーパーで働くことを口にしていたし、もしかすると、俺が寝込んでいる間、食料品の補給が途絶え、サチは俺に栄養を取らせるために何度もスーパーへ買い物に行き、病院に行かない俺の為に薬を沢山買ってきてくれた。それを考えると、サチの想定以上に所持金の目減りが激しいのかもしれない。
「大将に訊いてみるよ。厨房の方で人を募集してるかもしれない」
 サチに説明しながら、俺は『鰆(さわら)』の仕事を全て押し付けられただろう『小女子(こうなご)』さんの事が急に心配になった。
「小女子(こうなご)さんって、そんなに美人なの?」
 向かいに座ったサチが俺に訊く。
「いや、そういうわけじゃない。ただ、あの定食屋、お昼は戦場だから、まだ続いてるかなって心配になったんだ」
「コータは誰にでも優しいからね」
 まるで妬いているようなサチの言葉に、俺は思わずドキリとする。
「定食屋、賄はうまいぞ!」
 俺は言うと、『いただきます』と言って朝食を食べ始めた。
 以前は、ベッドから出て顔を洗い、頭から水をかけて水を滴らせながら朝食を食べていたのに、寝込んでいる間にサチに至れり尽くせりで、殺伐とした俺一人の生活の習慣を忘れかけていた。
「ほら、鰆(さわら)! 急がないと仕事に遅れるよ。それから、今日はバスで往復ね。歩くとか、走るとか、病み上がりには絶対だめだからね!」
 サチは言うと、自分のカバンの中からパスケースを取り出し、俺に手渡した。
「えっ、なにこれ?」
「なにって、パスケース」
「いや、それはわかるけど」
 俺は受け取りながら、首を傾げた。
「やだな、交通系ICカードくらい知ってるよね?」
「あ、ああ。もちろん、しってる」
「そのパスケースに入っているカード、チャージしてあるから、それを使ったら割安でバス乗れるから」
 サチに言われるまま、俺はパスケースをカバンに滑り込ませた。
「サチって、なんでも持ってるんだな」
 俺は感心しながら呟いた。
「そう? コータは使わないの?」
「俺は、もともと工場まで歩いて行かれる場所にある寮に入ってたから、通勤は徒歩だったから、必要なかったんだ」
「えー、通勤徒歩? すごいね。私は、学校も電車通学だったし、仕事も電車通勤だったから、パスケースは必需品かな」
 サチは言うと、自分も朝食を摂り始めた。
 サチが食事をしている間に、俺は共有の洗面所で身ぎれいにした後、頭に水をかけるのではなく、サチが用意してくれたヘアームースで寝癖を押さえつけた。それから部屋に戻り、サチが洗っておいてくれた『鰆(さわら)』のTシャツを着て、マフラーがわりに手ぬぐいを首に巻いた。
 ズボンを履き替える間、サチは皿を持って背中を向けてくれる。
 靴下を履き、身支度は全部整った。働き始めて以来、店の休業日以外休んだことのない俺は、何だか言葉にならない緊張感を持って玄関に立った。
「はい、バッグ」
 そんな俺に、サチが俺のバッグを手渡してくれた。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい。早く帰ってきてね」
 まるで、新婚夫婦みたいな言葉を交わし、俺は部屋を出て定食屋に向かった。

 いつもは歩いていくが、サチからパスを渡されていることもあり、言われた通りバス通りに出て定食屋の近くまで行くバスに乗った。
 歩いても行かれる距離だけあって、バスに乗るとあっという間だ。
 バスを降り、定食屋の裏口に回ると、大将が裏口で準備体操をしていた。
「大将、長いお休みを戴いて申し訳ありません」
 深々と頭を下げると、大将が安心したように微笑んだ。
「おっ、鰆(さわら)、生きが良くなったな」
 以前と変わらない大将の様子に俺は安心した。
「それが、鰆(さわら)がいない間に、小女子(こうなご)さん辞めちゃったよ」
 大将の言葉は、想像通りだった。
 別に、職場にいじめがあるわけではないが、今まで何度となく、大勢のバイトが辞めて行った。理由は、お昼時間の戦場のような忙しさと、ミスをしたときに先輩方から厳しい言葉で怒られるからだ。
 まあ、そういう意味で言えば、言葉の虐めと言えるようなものもあったかもしれないが、俺は他人の事には関わらず、ただ自分の仕事だけをこなしていた。
「大将、じつは、友達が働きたいって言ってるんですけど」
 俺はすかさず、大将にサチの事を話してみる。
「おっ、鰆(さわら)が友達なんて、珍しいな。えっと、男か?」
「いえ、女性です」
 俺の答えが意外だったのか、消極的だった大将の表情が明るくなる。
「おっ、いいね。やっぱり、あの殺伐としたランチタイムに女性が居てくれると和むんだよね、で、いつ始められる?」
 えっ、女性は面接ないのか?
 俺は思わず大将の事を見つめる。
「いや、すぐに始められないなら、募集をかけるしかないかなと思ってな」
「あ、たぶん、今日の午後、面接に来れると思います」
 俺が言うと、大将は笑顔で親指を立てて見せた。
「じゃあ、休憩時間に訪ねてくるように伝えてくれ。あ、一緒に来るか?」
「いえ、自分は別の仕事がありますので、大将を訪ねるように伝えておきます」
 俺は言ってから一礼すると、裏口から店に入り、仕事の準備を始めた。
 一週間も休んでいたのに、身体が覚えているのか、仕事は流れるようにスムーズに動く。
 テーブルと椅子の場所を整え、念のため、箸や爪楊枝、醤油などの調味料の量も確認する。それから、湯呑を使いやすい配置に並べた。テーブルに案内されたお客に一番に出すのが熱いお茶だ。そのタイミングが遅いと、常連客はイライラするし、早すぎると一見さんは戸惑う。
 テーブルに着いたお客の表情から常連か一見、数回のリピーターかを判断しなくてはならない。俺にできるか? 大丈夫、一週間はたった五日。五日間毎日来ていたって、常連にはなりきっていない。知らない客はみんな一見だと思うしかない。
 俺が店内の見回りを済ませたころ、奥が賑やかになり、スタッフが揃ってきたらしい。
「おっ、鰆(さわら)復活か!」
 先輩の声に頭を下げた。
「まあ、小女子(こうなご)は戦力にならなかったからなぁ~」
「最後は、泣き出すし・・・・・・」
「おつりも間違えたしな・・・・・・」
 口々に聞こえてくる言葉は、確かに言葉の虐めだ。
 俺は、こんな男ばかりの職場でサチがやって行かれるのか、急に不安になった。
「今日のお品書きです」
 厨房からの声に、俺は慣れ親しんだつづれ織りのお品書きを受け取りに行く。
 暗記する必要があるし、開店までの時間はそんなに長くない。
「暖簾出します」
 暗記が終わるかどうかのタイミングで声がかけられる。
 これからラストオーダーまで、ノンストップの戦闘開始だ。
 暖簾が出され、一気にお客が入ってくる。人数に合わせて席が割り振られ、俺たちは湯呑にお茶を注ぎ、それぞれのお客へと運んでいく。
 久しぶりと言っても、ほんの一週間ぶりなのに、いつものようにオーダーが頭に入ってこない。
激戦の中、三回もオーダーを間違え、常連さんから『鰆(さわら)くん大丈夫?』と、いたわりの声をかけてもらってしまった。それでも、俺の場合、体調不良だったという事と復帰後には、一応数のうちには入っていた小女子(こうなご)さんが辞めてしまっていて、カバーする席数が多い事もあり、仲間内から怒鳴られることも、あからさまな嫌味を言われることもなく、戦いは終了し暖簾がしまわれた。
 今まで毎日、大したことじゃないと思っていた仕事が、実はかなりハードだったことを思い知らせれた。特に、木製のお盆に丼と汁物などをまとめて運ぶときに、お客や仲間にぶつからずに、まさに魚のように店内を泳いで動くスキルが、一週間のうちに低くなってしまっていたようだ。それでも、誰にも激突することなく、お客に味噌汁をかけるという最悪の事態も引き起こさず、俺は今日の任務を終えることができた。
 賄の席も和やかで、大将からも『明日からもよろしくな』という温かい声をかけてもらい、俺は定食屋を後にした。
 いつもの癖で歩いて帰りそうになりながら、タイミングよくやってきたバスに慌てて飛び乗った。
 出勤時も感じたが、歩くのと違い、バスだとあっという間にアパートのすぐ近くまで帰ってくることができる。
 そういえば、俺はずっと車の組み立て工場で働いていたけれど、車の免許も持っていないから、実際に自分が組み立てていた車を運転したこともない。
 車を運転するって、どんな気分なんだろう。
 バスの窓から見える景色を眺めながら、俺はそんなことを考えてしまう。
 乗りなれないバスを危うく乗り過ごしそうになりながら、俺は最寄りのバス停で降りてアパートへと向かった。

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