この人だけは絶対に落とせない
6月
 武之内 智(たけのうち さとし)はここ数日、住み慣れたマンションである自宅で苛立ちを隠せずにいた。

 結婚して3か月。できちゃった婚なのに、流産した上、若い嫁なのに子宮の病で子供が出来にくくなり、子宝はあまり期待できそうにない。

 だが、今苛立っているのはその家庭環境のせいではなく、明らかに自らの仕事の精度が劣っている事に腹が立っていた。

「……」

 目の前のダイニングテーブルには夕食が乗っている。しかし、あまり旨くはない。今、それを無理して食べる気力はないし、その夕食を残している事に滅入っている嫁の相手もしたくない。

「……もういいの?」

 答えるのが面倒でそのまま席を立つ。

 嫁は同じ会社の同じ店舗で働いているので、仕事のことは相談すれば分かってもらえるのだろうが、今は他人にすら分かって欲しくはないし、ましてや元部下である妻にはなおさらだった。

 元々自分はライバル店であるリバティに在籍していたのだが、ツテをたどってホームエレクトロニクスに引き抜かれ、中型店の店長の後大抜擢されて、随一の大店舗である東都シティの副店長に納まった。

 はいいが、周囲は自分より若い者だらけで。挙句の果てには同じ副店長2人のうち、1人は10歳も下だ。もう1人は6も下。だが皆経験は充分あり、特に6下の柳原は確実に次期店長候補だ。

 そして今の店長の座を死守しているのが、同じ年でベンツを乗り回す、関 一(せき はじめ)。元々営業部に長くいたせいか、独特の雰囲気でいる。営業部長の湊とも仲が良いと聞くし、自分の出る幕などどこにもない気、しかしない。

 夜が明け、用意された朝食もとらずに出社する。

 シフトより1時間も早く出社して、なんとか早く慣れようと努力はしてきたが、それくらいの物ではまだ足りない。

 誰もいない一番乗りした事務室で、まず今月のスケジュールを確認する。

 定期監査の他に抜き打ち監査、社員の面談に来月のシフトの確認。副店長会議に店長会議の内容の徹底周知。夏の繁忙期への準備、土日のセール、セールの準備、倉庫の備品の修理に床美装……これでもかというくらい予定が入っている。

 昨日、それを見た10も年下の鹿谷が、「よっし、今のうちにバイトの意識向上しとかないと」と関に何気なく報告していた。

 関はそれに対して何の反応も見せなかったが、今のうち、というのが一体何のタイミングだったのかは分からなかった。

 鹿谷という男は随分勘が働くらしく、時々予期せぬ動きを見せ、しかもフットワークが軽い。

 溜息は、深く、大きくなる。しかし、つけば少し楽になる気がした。
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