シンデレラと恋するカクテル
第5章
〇サンドリヨンで働き始めてから二週間が経った金曜日

開店準備を終えたが、まだ客が一人もいない店内で、菜々はカップ・インという技を教えてもらっていた。右手で握ったボトルをふわっと投げ上げ、左手に持ったティンでボトルの底をすくうようにして受け止める技だ。

菜々「わあ、できた!」

ティンにボトルがうまく収まり、菜々は誇らしげに永輝に見せた。

永輝「うん、うまいうまい」

カウンターにもたれていた永輝が拍手をした。

菜々「ショーのとき、永輝さんはボトルを背中から投げ上げて体の前のティンで受けるって技をやってますよね」
永輝「ああ、あれはまだ菜々ちゃんには難しいかもね」

言われて闘争心に火がつき、菜々は無謀にも右手を背中に回してボトルを放り投げた。

菜々「えいっ」

気合い充分で投げ上げたそのボトルは、何をどう間違ったのか、永輝目指して飛んでいく。

菜々「あっ」
永輝「おっと」

菜々は息を呑んだが、永輝は顔の前に飛んできたボトルを難なく片手で受け止めた。

菜々「ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」

菜々はあわてて彼に近寄った。

永輝「うん、大丈夫。菜々ちゃんって意外と負けず嫌いなんだな」

永輝が左手を伸ばして菜々の髪の毛にふわりと触れた。そうしてサイドの髪をつまんで彼が指に絡める。

永輝「菜々ちゃんの髪の毛ってまっすぐでサラサラしてる」
菜々「そ、そうですか?」

永輝の親しげな仕草に菜々はドギマギする。

菜々「え、永輝さんの髪もサラサラですよ」
永輝「そう?」

永輝が自分の髪を両手でわしゃわしゃと掻き回した。

菜々「ヘアスタイルが乱れますよ」
永輝「無造作ヘアにしてるからいいんだよ」

菜々が永輝の言葉に菜々が笑ったとき、バーのドアが静かに開いて、黒の清楚なワンピース姿の女性が入ってきた。

菜々「いらっしゃいませ」

菜々は笑顔のまま言ったが、横で永輝が息を呑み、菜々は驚いて彼を見た。

永輝「穂乃花〈ほのか〉……」

永輝はつぶやくように言い、目を見開いてその穂乃花と呼んだ女性を見つめている。

穂乃花「永輝くん、久しぶり……」
永輝「ああ……」
穂乃花「あの、いいかな……」
永輝「どうぞ」

遠慮がちに言った穂乃花に、永輝が淡い笑みを見せたが、すぐ横にいる菜々には彼の顔が引きつっているのがわかった。

菜々(まさかまさか……この人が、永輝さんの前の前の前の……何人か前の彼女?)

穂乃花がバーに足を踏み入れ、迷うように店内を見ているので、菜々は努めて明るい声を出した。

菜々「お好きなお席にどうぞ」
穂乃花「あ、はい」

穂乃花が菜々を見てから、カウンターの一番端の席に座った。永輝は黙って菜々の手から練習用のボトルを受け取り、バーカウンターの隅に置いた。永輝も穂乃花も何も言わないので、店内は重苦しい沈黙に支配される。

菜々「あ、あのっ、ご注文はお決まりでしょうかっ」

なんとか雰囲気を和らげようと菜々は大きな声で言った。

穂乃花「そうね、ええと……ルビーカシスを」
永輝「かしこまりました」

永輝がいつにもまして低い声で答えた。タンブラーに氷を入れ、カシス、ドライベルモットを注いでトニックで満たし、軽くステアした。そのカクテルの赤色は、店内の淡い照明を浴びて切ないほど深く見える。

永輝「どうぞ」
穂乃花「ありがとう……」

穂乃花はそっとグラスを持ち上げ、口を付けた。しばらく飲んでからグラスを置き、おもむろに永輝を見る。

穂乃花「あのね、私……」

永輝は無言で穂乃花を見返した。

穂乃花「智宏〈ともひろ〉くんにプロポーズされたの」

永輝はかすかに微笑んだ。

永輝「よかったじゃないか、おめでとう」
穂乃花「本当に……そう思ってくれてる?」

穂乃花が永輝をじっと見つめた。店内にまた沈黙が落ちる。

菜々は二人の会話をこれ以上聞いているのはいけないような気がして、そっと永輝の後ろを通って休憩室に向かおうとした。だが、右の手首を永輝につかまれ、驚いて振り返ると、彼が黙って首を振った。

菜々(ここにいろってことなのかな)

菜々は永輝に手首をつかまれたまま、その場でじっと息を潜める。

永輝「俺がどう思おうと関係ないじゃないか。そういうのは二人の気持ちが一番大切だろ」
穂乃花「でも、永輝くんが仕事を辞めたのは、私のせいなんでしょ?」
永輝「ずいぶんと自意識過剰だね」

永輝がふっと笑みを浮かべたが、その淡い笑みは一瞬で消えてしまった。公園で彼に聞いた話から、永輝が仕事を辞めたのはまさしく彼女のせいだというのはわかっていた。菜々は思わず口を開く。

菜々「永輝さんは本当は……」

まだ彼女のことが好きなんでしょ、と言ってしまいそうになって、あわてて口をつぐんだ。それは菜々が伝えていいことじゃない。それでも永輝の表情が切なげで、どうにかしてあげたくなる。

菜々「あのね、永輝さん」

菜々が永輝の目を見つめたとき、彼が菜々の手首から手を離したかと思うと、その手を菜々の腰に回した。驚く間もなく抱き寄せられて、菜々は小さく悲鳴を上げる。

永輝「穂乃花、紹介するよ。斎城菜々ちゃんだ。俺たち付き合ってるんだよ」

永輝が菜々を両腕で包み込み、驚きのあまり硬直している菜々の顔を覗き込んだ。そうして深い鳶色の目で菜々をじっと見つめる。〝黙っていて〟と訴えるその瞳の色は、胸が痛くなるほど苦しそうだ。

菜々(永輝さんは穂乃花さんの幸せを考えて……彼女が心置きなく結婚できるように……こんなことを)

どうしようもなく悲しくてやるせなくて、菜々は込み上げてくる涙を必死に抑える。

永輝「菜々ちゃんは恥ずかしがり屋だからな。人前で抱きしめられてびっくりしてるんだよ。まあ、こういうわけだから、穂乃花は何も気にするな。智宏と幸せになれ」
穂乃花「永輝くん……ごめんね」
永輝「なんで謝るんだよ。俺は今幸せなんだ。菜々ちゃんと出会えたのは穂乃花と別れたからだ。だから、気にするなって」
穂乃花「そう……。それなら本当によかった。智宏くんもずっと気にしてたから」
永輝「二人とも律儀だな。俺は俺で毎日楽しくやってるんだから。な?」

永輝は菜々の頬に自分の頬をこすりつけた。その様子を見て、穂乃花が顔を赤らめながらグラスを口に運んだ。

穂乃花「なんか……気に病む必要なかったのかな……?」
永輝「当たり前だ。智宏にも〝お幸せに〟って言っておいてくれ」
穂乃花「ありがとう……。今日、思い切って永輝くんに会いに来てよかった」

穂乃花はグラスをコースターに置いた。

穂乃花「智宏くんのプロポーズにイエスって答えたものの、裏切ってしまった永輝くんのことを思うと、私だけ幸せになっちゃいけない気がして……」
永輝「バカだな……本当にバカだな。穂乃花は俺の気持ちなんて何もわかっちゃいないんだから」

永輝が口角を引き上げて言い、穂乃花がふっと笑った。

穂乃花「そうみたいね。永輝くんもお幸せに」

穂乃花は立ち上がる。

穂乃花「ごちそうさま、おいしかったわ。おいくら?」
永輝「いいよ。俺からの結婚祝い。ってカクテル一杯じゃ安すぎるか」
穂乃花「そんなことないわ。ありがとう。それから、お邪魔様」

穂乃花が永輝の腕の中で固まっている菜々に視線を向けたので、菜々はぎこちなく頭を下げた。穂乃花が小さく会釈をして背を向け、バーの出口へと向かった。そして、静かにバーのドアを開け、一度振り返って永輝を見る。

穂乃花「さようなら」
永輝「ああ」

永輝が答えた直後、穂乃花が店を出てドアが閉まった。バタンという音を聞いたとたん、菜々の目から涙があふれ出した。首だけねじって永輝を見上げると、永輝がギョッとしたように腕を解く。

永輝「そんなにイヤだった? ごめん」
 
彼があわてて言ったが、菜々は首を振って泣きながら言う。

菜々「どうしてあんなことを言ったんですか!」
永輝「え?」

永輝は首を傾げた。

菜々「穂乃花さんに、どうしてあんなことを! まだ彼女のことが好きなんでしょ? 伝えられるときに伝えておかないと! 彼女が永遠に手の届かない人になってしまう前にっ。今ならまだ間に合うかも……」

ぽろぽろと涙をこぼしながら訴える菜々を、永輝は驚いたように見ていたが、すぐに菜々をふわりと抱き寄せた。

永輝「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、もしそうしたら誰も幸せになれないよ」
菜々「どうして?」

菜々は涙に濡れた目で永輝を見上げた。

永輝「穂乃花の心が戻ってこないとわかってるのに、もし本当の気持ちを伝えたら彼女を苦めてしまう。たとえ気持ちを伝えて一時的にすっきりしても、きっと後で罪悪感を覚えると思うから」
菜々「でも……」

永輝は菜々の顔を覗き込む。

永輝「菜々ちゃんはなんで俺のことなんかにそんなに真剣になってるの?」
菜々「だって、永輝さんが……痛々しいんだもん……」
永輝「痛々しい、か」

永輝はボソッと言って、菜々を抱きしめる腕に力を込めた。

永輝「そんなに泣いて……。俺には、菜々ちゃんの方が痛々しく見えるよ」
菜々「だって……」

菜々(伝えたい想いはあるのに伝えられないなんて……そんなの苦しいはずなのに……)

菜々が肩を震わせながら泣いていると、サンドリヨンのドアが開いた。大樹が入ってこようとしたが、二人の姿を見て驚いて足を止める。

永輝「悪い、大樹、今日はもう閉店する。ドアの札をひっくり返してCLOSEDにしておいてくれ」

永輝に言われて、大樹は黙ったままうなずくとそっとドアを閉めた。

菜々「なんで閉店……」

菜々がしゃくりあげながら言うと、永輝が小さく笑った。

永輝「今日はもう店を開ける気分じゃないんだ」
菜々「だって……フレアをしたら……永輝さん……悩まないですむって言ってたじゃない」

ですか、と菜々は言おうとしたが、続きは出てこなかった。永輝が菜々のまぶたに口づけたからだ。驚いたせいで菜々の涙がピタリと止まった。菜々が瞬きをして永輝を見つめるので、彼は照れたように笑う。

永輝「これは、手を出したのとは違うからな。菜々ちゃんがあんまり……泣くからだ」
菜々「ご、ごめんなさい……」

永輝がカウンターのスツールに腰を下ろし、菜々を横向きに膝の上に座らせた。そして優しく菜々の髪を撫でる。

永輝「俺のために泣いてくれてありがとう。でも、本当にもういいんだ。これでようやく吹っ切れそうな気がする」
菜々「本当に……?」

菜々は涙で濡れたままの目で永輝を見た。彼の膝の上にいるので、目の高さは菜々の方が少し高い。

永輝「ああ」

永輝はうなずいて続ける。

永輝「それより、菜々ちゃんも誰かに伝えたいのに伝えられないことがあるんじゃないのか?」

永輝に言われて菜々は視線を落とした。

永輝「よかったら話してほしいな。もしかしたら、俺みたいに気持ちが少し軽くなるかもしれない」

大きな手に優しく髪を撫でられて、菜々はうつむいたまましばらく迷っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。

菜々「私が……バイトばかりしてるのは……もちろん生活のためっていうのもあるんですけど……永輝さんがフレアをするみたいに、ほかのことを考えたくないからっていうのもあるんです」
永輝「ほかのこと……?」
菜々「両親が……私が大学三回生のときに亡くなったんです」
永輝「それは……お気の毒に……」

永輝はいたわるように言った。

菜々「結婚二十五周年のお祝いに……両親が二人だけで旅行に行ったんです。そのとき泊まった旅館が……前日の大雨で起こった土砂崩れに巻き込まれて……。でも、そのとき私は親の留守をいいことにを、友達とショッピングに行ったりカラオケに行ったりと好き放題に遊んでて……現地の警察の人が自宅の電話に何度も連絡してくれてたのに……次の日に帰宅するまで……気づかなかったんです」

冷たくなった両親が泥の中から見つかったというのに、菜々は友達と遊び回っていた。菜々が自宅の留守番電話に残されたメッセージに気づいて飛行機に飛び乗り、現地に向かったときには、両親は一日以上、遺体安置所で寂しく横たわっていたのだ。

菜々「二人一緒に見つかってよかった、とか慰めてくれる人もいたけど……私、自分が許せなくて……」

そのときのことを思い出して、また目の前がにじんできた。菜々の肩に永輝の片手が回され、菜々は彼の肩に頬を預けて話を続ける。

菜々「母はどこかのお金持ちの家の娘だったみたいで、親に決められた結婚相手がいたんです。気乗りしないまま、その相手と会うはずだった料亭に行ったら、板前だった父がいて……詳しくは知らないんですけど、そのとき二人は恋に落ちたんだそうです。でも、いくら説得しようとしても、母の父が猛反対して結婚を認めてくれず、料亭に圧力をかけて父をクビにしたんです。それで、二人は駆け落ちして……それから私が生まれて。だから、私たちずっと三人で生きてきたんです。それなのに、私一人だけ……」

菜々の頬を涙が伝った。菜々の肩に回された永輝の手に力がこもる。

菜々「どうしていいかわからないまま毎日が過ぎていって……気づいたら四回生になっていたんです。単位もぜんぜん足りないし、生活もしていかなくちゃいけないし……。両親の生命保険金が下りたけど、三人で暮らしていた家を手放したくなくて、それで家のローンを払って……残りを学費に……。でも、やっぱり誰もいない家にいるのはつらくて、アパートを借りて……」

思い出が津波のように押し寄せてきて、それ以上話を続けられなかった。菜々はたまらず永輝の肩に顔をうずめた。

永輝「一人でがんばってきたんだね」

永輝の優しい声が耳元で聞こえた。誰かに受け止めてほしくて、甘えたくて、菜々は目の前にいる永輝の首に両手を回してしがみつく。

永輝「好きなだけ泣くといいよ」

永輝に言われて、菜々は子どものように声を上げて泣いた。今まで胸の奥底に無理矢理押し込めていた感情が膨れあがり、涙が止めどなくあふれてくる。

永輝はただ黙って、ずっと菜々の背中を優しく撫でてくれていた。

苦しいくらい泣いてようやく我に返り、菜々は永輝の肩からそっと顔を上げた。

菜々「ごめ……ごめん……なさ……」
永輝「謝らなくていいよ。何か訳がありそうだなとは思ってたけど、ご両親が亡くなっていたとは知らなかった。菜々ちゃんが穂乃花の前で俺を助けてくれたように、俺も菜々ちゃんの力になりたい。これからはもっと俺に頼ってくれていいから」

菜々(私の事情を知って同情してくれているんだよね……。でも、私、ひとりぼっちじゃないって言われているみたいで……嬉しい)

菜々「ありがとうございます……」

菜々は永輝の膝の上で背筋を伸ばして、ポケットからハンディタオルを出して涙を拭った。

菜々(こんなに泣いたの、初めてかも……お葬式でも実感が湧かなくて、呆然としてたから……)

永輝は菜々の目を覗き込んだ。菜々の瞳が濡れているものの、もう泣いてはいないのを見て言う。

永輝「落ち着いたなら、今日は車で送っていくよ」
菜々「すみません、勝手なことを言って泣いたのに……」
永輝「俺の代わりに泣いてくれたんだ。おかげで俺はすっきりした」

永輝は微笑んだ。その笑みがあまりに温かくて、菜々もつられて頬を緩める。

菜々「永輝さんってすごく優しいんですね」
永輝「今頃気づいたの?」

彼におどけた口調で言われて、菜々の顔に知らず知らず笑みのようなものが浮かぶ。

永輝「じゃあ、着替えておいで」
菜々「はい」

菜々は永輝の膝から下りて、休憩室へ向かった。着てきたスーツに着替えてバーに戻ると、永輝は右手に車のキーを持っていた。

菜々「本当に今日は閉店でいいんですか?」
永輝「うん。俺の勝手で悪いけど」

永輝がバーのドアを開けてくれたので、菜々は先に外に出た。八月になったばかりの今は夜でも蒸し暑い。永輝がドアに鍵をかけて、菜々を駐車場へと案内した。一台の黒のSUVに近づき、助手席のドアを開けてくれる。

菜々「ありがとうございます」
 
菜々が座席に座り、永輝が助手席のドアを閉めて運転席に回り乗り込んだ。彼がエンジンをかけて、エアコンの吹き出し口から冷風が流れ出し、車内を冷やし始める。

永輝「家はどこ?」

永輝がシートベルトを締めながら言った。菜々が黙っているので、彼が助手席を見る。

永輝「どうしたの?」

優しく顔を覗き込まれて、菜々はおずおずと言う。

菜々「あの、久しぶりに両親の話をしたら、実家に戻りたくなって……」
永輝「じゃあ、実家に送ろうか?」
菜々「でも、ここからだと高速を使っても一時間はかかると思います」
永輝「構わないよ。送っていく。夜のドライブも気持ちいいから」
菜々「本当にいいんですか?」
永輝「ああ」
菜々「ありがとうございます」

菜々がシートベルトを締める間、永輝がカーオーディオを操作した。夏の夜にふさわしい、しっとりとしたジャズがスピーカーから流れ始める。菜々が実家の住所を伝えると、永輝がゆっくりとアクセルを踏み込み、車が滑らかに走り出した。

菜々は深く息を吐き出して窓の外を見た。この辺りは閑静な住宅街で、人通りも車の往来も少ない。やがて高速道路の入り口が見えてきて、ETCのゲートを抜けたとたん、永輝がアクセルを踏み込んだ。車がぐっと加速して高速の流れに乗る。

窓から日本一の高層ビル、あべのハルカスが見え、近隣のビルやマンションとともに、大阪の夜景を彩っている。やがて街の明かりを水面に映した大きな川を渡り、電車の線路と併走して走る間も、永輝は何も言わなかった。菜々もその沈黙が心地良くて、じっと座席に座っている。

四十分ほどして高速から下り、大阪府の郊外の国道に出た。

永輝「この辺りからナビをしてもらえるとありがたいんだけど」

永輝に言われて、菜々はフロントガラスに視線を向けた。

菜々「えっと、もう少し走ると左手に大型スーパーが見えてくるので、そこを左折してください」

永輝が左折する。

菜々「道なりに走ってT字路で右折したらすぐです」

菜々は不安のようなものを覚えて鼓動が速まるのを感じていた。両親の葬儀を済ませて、罪悪感から逃げるように荷物を持って出て以来、二年近く戻っていない実家。どうなっているだろうか。

菜々「あ、そこの左の角の家です……」

住宅街で一軒だけ明かりのついていないその家の前に、永輝が車を停めた。助手席に座ったまま、菜々は浅い呼吸を繰り返す。彼にワガママを言って連れてきてもらったけれど、一人で家に入る勇気がまだ出ない。

永輝「もしよかったら、俺にご両親に挨拶させてくれないかな?」
菜々「え?」

菜々は車が走り出してから初めて永輝の顔を見た。彼は端正な顔を心配そうに傾けて菜々を見ていた。

永輝「アルバイト先のオーナーですって、責任を持って娘さんをお預かりしていますって伝えたい」
菜々「わ……かりました」

座ったまま動こうとしない菜々を気遣ってくれての永輝の言葉なのだろうが、とても心強かった。菜々はシートベルトを外して車から降りた。震える手で門扉を開けると、それは懐かしい小さな音をキィと立てた。コンクリートの階段を上って焦げ茶色の扉の前に立ち、バッグから鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。カチリと音がして、二年ぶりの訪問を迎えるべく鍵が開く。

菜々はゴクリと喉を鳴らして、ドアを引いて開けた。

菜々「ただいま……」

誰もいない家は、むわっとした熱気がこもっていてほこりっぽい。壁のスイッチを押すと玄関のライトが点き、一度瞬きをしてからオレンジ色の明かりで廊下を照らし出した。

菜々「電気も水道も使えるままにしてるので、今エアコンを入れますね。それから、お茶を淹れるので、飲んでいってください。あ、でも、お茶もコーヒーも賞味期限が切れてるかな……」
永輝「いいよ、気にしないで」

菜々は靴を脱いで永輝を促し、ダイニングの隣の和室へと向かった。和風のライトに照らされた部屋の隅の小さなデスクに、葬儀で使った両親の写真と位牌が置いてある。仏壇代わりのそこには、ほかに家族三人で旅行に行ったときの写真や、菜々の大学の入学式のときの写真なども並んでいた。

菜々「仏壇はないんですけど……」

菜々が申し訳ない気持ちで言うと、永輝が写真の前に立ち、手を合わせて静かな声で言った。

永輝「バー・サンドリヨンのオーナー・バーテンダーの深森永輝と申します。菜々さんはバイトを掛け持ちしながら、うちでも笑顔で一生懸命働いてくれています。きちんとそばで見守っていきますので、どうぞ安心してください」
菜々「あ、ありがとうございます」

菜々が永輝を見ると、彼は目元を緩めてうなずいた。菜々も彼の横で手を合わせる。

菜々「お父さん、お母さん、ずっと戻ってこなくてごめんなさい。それから、二十年間、大切に育ててくれてありがとう……。お父さんとお母さんの子どもで幸せだった。お父さん、お母さん、ずっと大好きだよ……」

ずっと思っていて、でもずっと言えなかった感謝の気持ち。それを菜々はようやく言葉にできた。

菜々(お父さんとお母さんに届いたかどうかはわからないけど……)

菜々がやるせない笑みを浮かべたとき、永輝が言った。

永輝「きっと伝わってるよ」
菜々「え?」

菜々が隣に立つ彼を見上げると、永輝は三人で映っている家族写真を見ていた。兵庫県の有馬温泉に行ったときに浴衣姿で三人で撮ったもので、三人で映っている写真としては一番新しいものだ。

永輝「きっと菜々ちゃんのこういう笑顔を見て、ご両親は菜々ちゃんの気持ちをいつも感じ取って、わかっていたんじゃないかな。こんなにも仲の良い家族なんだから、言わなくてもきっと伝わってたと思うよ」

彼のその言葉を聞いた瞬間、温かな涙が込み上げてきて、さっき心の奥底から解き放たれたばかりの感情を洗い流すかのように、菜々の頬をゆるりと濡らした。

菜々(ダメ……また泣いたら……永輝さんの迷惑になっちゃう……)

菜々は涙を見せまいと、あわてて顔を背けた。彼の左手がそっと伸びてきて、菜々の肩を優しく引き寄せる。

永輝「何度泣いたっていいんだよ。俺は構わないから」
菜々「永輝さ……っ」

菜々は彼の肩に頭をもたせかけ、浴衣姿で微笑む両親の写真に視線を向けた。そうして心が欲するままにただ涙を流した。熱い滴が頬を伝うたびに、後悔、罪悪感、不安、自分への嫌悪……そんな気持ちがゆるゆると解けて流れていく。それと同時に、永輝に対する熱い感謝の気持ちが膨れあがっていく。

菜々がチラリと視線を向けると、永輝のいたわるような優しい眼差しとぶつかった。

菜々(なんか……胸がいっぱい……)

永輝が菜々の肩を抱いたまま、ふと顔を傾け、彼女の顔を覗き込んだ。

菜々(またまぶたにキスされる……?)

菜々の胸がまるで期待するかのように小さく音を立てたが、彼は思い直したように姿勢を正し、右手の親指で菜々の涙をそっと拭った。菜々は期待してしまったことを悟られないよう、急いで口を開く。

菜々「あの、何か飲める物を探してきます。賞味期限の切れてないのがあるかも……」

永輝が菜々の目元をもう一度親指でなぞり、もう涙がこぼれないことを確認して、口元を緩めた。

永輝「じゃあ、俺は部屋の空気を入れ換えておくよ」

菜々の肩から永輝の手が離れた。さっきまで支えてくれていた温もりが消えて、胸がキュッと締めつけられる。菜々が永輝を見上げると、彼が気遣うように小首を傾げた。もう大丈夫、という気持ちを伝えたくて、菜々は口元で笑みを作った。同じように永輝が微笑み返してくれる。

菜々(そろそろ……飲みものを探さなきゃ)

菜々は大きく息を吐いて、キッチンへと向かった。永輝が窓を開ける音がして、よどんだ空気が動き、いくぶん気温の低い外気が入ってくる。

菜々はキッチンでダークブラウンの食品戸棚の扉を開けて中を探したが、開封済みのインスタントコーヒーの瓶は中身が固まっているし、未開封のものも賞味期限がとっくに切れていた。

永輝「今夜はここに泊まるの? アパートに戻るのなら送っていくよ」

永輝はキッチンに入ってきたが、コーヒーの瓶を持ったまま途方に暮れている菜々を見て目を細めた。

永輝「その辺の自販機で何か買ってくるよ。待ってて」

廊下を歩き出した永輝を、菜々はあわてて追いかける。

菜々「私も行きます」

永輝と一緒に住宅街を少し歩いて、道路沿いのコンビニに行き、缶コーヒーとペットボトルの紅茶、それに夕食代わりにパスタ弁当を買った。歩道を歩いて再び家に戻ったとき、ダイニングに明かりがついたままのその建物は、菜々の目にはほんの少しだけど息を吹き返したようにも見えた。それが嬉しくて、また涙腺が緩む。菜々が目元を拭ったのに気づいて、永輝がいたわるような声で言った。

永輝「大丈夫?」
菜々「も、もう少し……」
永輝「ん?」

永輝に顔を覗き込まれた気配がしたが、菜々はずうずうしいことを言おうとしているのが申し訳なくて、顔を上げられないまま口を開く。

菜々「もう少し……両親の話を聞いてくれませんか?」
永輝「もちろんいいよ」

菜々は彼の返事にホッとして視線を上げると、穏やかに微笑む永輝と目が合った。

菜々「好意に甘えっぱなしですみません」
永輝「俺も菜々ちゃんともう少し一緒にいたいなって思ってたんだ。だから、気にしないで」

菜々(どうしてこんなにも気遣ってくれるんだろう。本当は優しい人だって思ってはいたけど、普段の軽い言動のせいで、深森さんはすごく損をしているんじゃないかな)

菜々は和室のこたつに座って永輝とともに夕食を食べた後、アルバムを引っ張り出して両親の思い出話をした。何度か引っ越しをして、中学生のときにここに落ち着いたこと、死ぬ前まで、父は大阪の小さな料亭で働いていたこと、父と母がときどき笑顔で見つめ合っていたこと……。

菜々「私が気づくと、照れたように笑うんです。お互い、まだ恋をしてるんだなってわかってステキでした……」

菜々はほうっと息を吐いた。

永輝「ステキなご両親だったんだね」
菜々「はい!」

永輝の言葉が嬉しくて、菜々は彼を見つめた。その深い色の瞳に浮かんでいるのは、菜々の過去を知った同情でも、バイト先のオーナーとしての義務感でもない。心から共感してくれているような温かさだ。

菜々(まだ一緒にいてほしいな……)

菜々は手の中の紅茶のペットボトルをギュッと握りしめた。

菜々「あの……」
永輝「どうした?」
菜々「あのっ、こ、今夜はここに泊まっていきませんか? も、もう遅くなってしまったし、こんな時間に運転して帰るのは危ないですし……」

言い訳するように早口で言う菜々を見て、永輝はふっと笑みをこぼした。

永輝「それじゃ、お言葉に甘えてそうしようかな」
菜々「あ、ありがとうございます!」

菜々はドキドキしながら立ち上がる。

菜々「あ、あの、父のパジャマをお貸しします。新しいのがあったはずなんです。それで、あの、バ、バスルームはあっちです。タ、タオルはこれを……」

菜々は和箪笥を引っかき回して、父のパジャマを取り出した。それからフェイスタオルとバスタオルとともに永輝に差し出す。

永輝「ありがとう。じゃあ、先にシャワーを借りるよ」
菜々「は、はい」

永輝がタオルとパジャマを受け取ってバスルームへと向かった。その大きな背中を見ていると、菜々の心臓が暴走し始める。

菜々(わ、私、なんかすごい大胆なことを言っちゃった? どうしよう! でも……)

まだ一人になりたくなかった。というより、彼にそばにいてほしかったのだ。

やがてシャワーを終えて、紺色のパジャマを着た永輝が、タオルで髪を拭きながら出てきた。

永輝「ありがとう、さっぱりしたよ」
菜々「あ、い、いえ」

菜々は緊張してロボットのようにぎこちない動きでバスルームへと向かった。着てきたものを脱いでカゴに入れ、バスルームのドアを開ける。タイルが濡れて湯気のこもったそこを、ついさっきまで永輝が使っていたのだと思うと、なんだか体がほてってくる。

菜々(やだ、何よ、もう!)

大きな音を立て続ける心臓をなだめようと、ぬるめのシャワーを浴びた。それでも体のほてりが収まらなくて、ついには冷水を浴びる。

菜々(つ、冷たっ)

どうにか鼓動が緩やかになり、菜々はバスルームから出てパジャマを着た。

永輝「ずいぶんゆっくりしてたね。倒れてないか心配になるところだったよ」

和室で座って待っていた永輝が、立ち上がって菜々に近づいてきた。彼女の髪が濡れたままなのに気づいて、肩にかけていたタオルで菜々の髪をゴシゴシと拭く。

菜々「ひゃ」

目の前に甘い表情の永輝がいて、菜々の心臓がまたうるさく音を立て始めた。

永輝「ちゃんと乾かさないと。いくら夏でもこんなに濡れた髪のままじゃエアコンで冷えるぞ」

永輝に顔を覗き込まれ、菜々はドキンとする。

菜々(し、心臓が持たない!)
菜々「じ、自分で拭けます! 大丈夫ですからっ」

菜々が真っ赤な顔で怒鳴って、永輝が困惑気味に笑みを作った。

永輝「そんなに警戒しなくても……。菜々ちゃんには手を出さないって約束しただろ」

菜々の全身を駆け巡っていた熱い血流が一気にその熱を失った。

菜々「あ、そ、そうですよね……」

菜々(私がそう何度も念押ししてきたのに、がっかりするなんて……私ってば何を期待してたんだろう)

菜々「それじゃ、客間に案内します」

菜々は階段を上って、自分の部屋の隣にある客間に永輝を案内した。押し入れを開けると、永輝が布団を下ろした。

菜々「干してない布団ですみません」
永輝「いいよ。俺はどこでも寝られるタイプだから。じゃあ、おやすみ」
菜々「はい、おやすみなさい」

菜々は客間を出て、隣の自分の部屋に戻った。二年前の夏に出て行ったときのまま、何一つ変わっていない。

菜々(また帰ってこられるなんて思わなかったな……)
 
どうしても帰れなかった、家族三人の思い出がいっぱい詰まった家。菜々はエアコンのスイッチを入れて、ベッドに横になった。ヴーンと鈍い音がしてエアコンが作動し、室内の気温が徐々に下がっていく。

菜々は深く息を吐きだした。

菜々(今日はよく眠れそうな気がする……) 
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