【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
第1話 コーヒーは私の精神安定剤
ふわり、と立ち昇ってくる香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

それが喉を通り、やがて鼻から抜けてくる独特な香りは精神安定剤のように私の心をひどく落ち着かせた。安心していいよ、大丈夫だよ、心配しなくていいよ、そう言わんばかりに。

 喫煙者にとったらタバコと同じように、私にはコーヒーが必要不可欠なものだった。身体がカフェインを欲しているとか、そういう訳ではない。ただ、その香りを身に纏うだけで気分をリセットできるのだ。

 その香りに身を委ねながら、今日もこっそり私は人間観察をしていた。

 小さな商店街の片隅に、ひっそり通い詰めている喫茶店がある。1階に古書堂を構えるその上の階、そこに老夫婦が営む喫茶「ベコニア」は存在していた。入り口に立てかけられている黒板のフレームスタンドには、「本日のおすすめ」としてコーヒー豆の種類やフードメニューがいくつか描かれている。夜の店内は会話の邪魔にならないくらいのジャズがかかっており、暖かみを灯す照明は程よく落とされていた。配置されている家具や、装飾品、この手に持っているカップもアンティークもので、非現実世界に足を踏み入れたような感覚に陥ることができる。そして商店街の道路に面する席は全てガラス張り。この時間になるとシャッターを下ろしてしまう店もあ理、閑散とした商店街に寂しく感じる。そう感じた時、寂しさを埋めるようにコーヒーを飲む癖があった。

 私が喫茶「ベコニア」に初めて足を踏み入れたのは、約3ヶ月前。誰かに教えてもらってとか、口コミで来たとか、そういう訳ではなくただ単にふらっと立ち寄った場所である。最初に訪れた日は確か・・・あぁ、元彼に振られたその足でここへ辿り着いたのだ。化粧も涙で崩れた酷い顔をして。家に帰った後鏡で自分の顔を見てとても驚いた。とても人に見せられないような顔をしていたから。

しかし自身の思っていた以上に元彼への未練は早くも消え、それからは少なくとも週に2回は通っている。もちろん化粧が崩れていないか要確認している。

仕事帰りに寄っては、定位置であるカウンター席の奥、カラス張りの壁に一番近い席に座り、1杯だけコーヒーを飲んで帰る。それが私の1つ目の日課だった。

 
 ところで話は変わるが、私には気になる人がいる。言っておくが気になるとは言っても、恋愛の意味ではない。ただ、同じ人間として興味があると言った方が近いのかもしれない。喫茶「ベコニア」で働く、“桐山水樹”という店員。彼が私のもう1つの日課である人間観察の対象人物であった。少しだけ毛先に癖のある黒髪に、白いシャツ、濃いブラウンのエプロンを身につけている男の人。もう1度言っておくが“好き”とかその様な感情ではない。ただ、手が綺麗だな、とか、所作が綺麗だな、とか。声が綺麗だな、笑った顔が綺麗だな、とか。もはや「綺麗」とでしか表現できない私の語彙力の低さに頭を抱えたくなるが、第一印象はとにかく「綺麗」な人だった。
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