【完】喫茶「ベゴニア」の奇跡
もちろん彼とは会話する時やその暖かみを感じる綺麗な瞳に私が映る機会なんて注文や会計の時以外にはない。その“桐山水樹”という名前も他の常連客が言っていたのを盗み聞きしたから知っているのである。言葉遣いや接客も丁寧で、年齢は私と同じくらいだと踏んでいるが、歳の離れた常連客や子供にもとても気に入られていた。

 ちなみに喫茶「ベコニア」にはサイフォンという水蒸気を利用してコーヒーを淹れる器具がある。今日はサイフォンを使って彼の手で丁寧に淹れられたコーヒーがこの手元にあるのだ。今日はブラジルが原産国のノンカフェインのコーヒーを選んだ。口の中に含むと一瞬で広がる大好きな香り。自分で淹れるインスタントコーヒーや、他のお店で飲むコーヒー、それらには感じられないものが、彼のコーヒーには感じる。その感じる“何か”を言葉にするのは難しい。表現できないもどかしさとまたもや語彙力の低さに頭を抱えたくなった。

 ---彼はどんな魔法をこの一杯にかけたのだろう。なんて20代後半になっても少女漫画脳である私は今日も1人で桐山水樹を観察していた。別に仲良くなりたいなんて、そんなおこがましいことは思っていない。遠くから見ているくらいが丁度良い。

そう思っていたのに。


「今日の香りは気にいってくれましたか?」


いつもは少し離れた場所で聞いていたその低すぎず高すぎない心地よい声が、すぐ傍で聞こえる。幻聴かとパッと視線をコーヒーから離すと、カウンターの向かい、つまり私の正面に桐山さんが立っていた。自分自身に向けられて話しかけられたのだと理解するまで少し時間がかかってしまった。

まさか話しかけられる日が来るなんて。その綺麗な瞳の奥に私の姿を確認する日が来るなんて。驚愕のあまり思わず「へ?」と変な声を出し、マヌケな面のままフリーズしてしまった。無反応だった私を見てか、桐山さんは「すみません」と慌てふためく。

「いつもは19時過ぎにはお越しになるのに、今日は遅かったなと思って、話しかけてしまいました」

そう言って彼は、壁掛けのアンティークの時計を指差す。そのオシャレで可愛い2本の針はすでに時刻は20時半を指していた。いつもならすでにお会計を済ませて帰宅する時間帯である。

変な緊張で思うように言葉を口にすることができない。平常心を取り戻すためにコーヒーを一口飲んでみるが、それでも声が少し震えてしまった。

「・・・お、お察しの通りです。残業でこの時間になってしまいまして。」
「そうなんですか。お疲れさまです」
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