懐妊秘書はエリート社長の最愛妻になりました
懐かしさが運ぶ痛み
亮介がベーカリー工房みなみに思いがけず訪れた夜、里帆はベッドサイドの小さな引き出しからB5サイズのノートを取り出した。
ぺらぺらとめくると、そこには取引先の役員の情報や注意事項などが細かく書き留められている。亮介の秘書をやっていたときのことが蘇り、懐かしい想いとともに胸がきゅうっと縮まる気がした。
里帆が海辺のこの街にやって来たのは、まだ夏真っ盛りの八月下旬。日焼けした海水浴客がそぞろ歩く道をあてもなく歩いた。
新居が見つかったら連絡をするよう成島に言われていたため、荷物はキャリーバッグひとつ。あとから残りの荷物を送ってくれる手はずになっていた。
期限は亮介が海外出張から帰るまでの数日間。そのうちに住んでいたアパートから荷物まで引き払わなくてはならず、一刻の猶予もなかった。
どうしてあっさり別れを承諾したんだろう。
なんでこんなところをひとりで歩いているんだろう。
絶望感に襲われる中、たまたま見つけたパン屋の求人に飛び込み、アパートまで斡旋してもらえるという巡り合わせには感謝した。
バスとトイレが別になった1Kの部屋は、里帆には十分なほど。最低限の荷物で始めた新生活は、南夫妻のおかげでなんとか成り立っている。