エリート脳外科医は契約妻を甘く溶かしてじっくり攻める
 私は辛うじてお礼を言って、そそくさと部屋に戻った。

 デスクの椅子に座り、パソコンの画面と向き合う。
 けれども思考は仕事じゃなく、私情でいっぱいだった。

 いろんな感情が入り乱れてる。先走ったこと言った恥かしさと、彼に必要とされなかった悲しさと……。

 どんなに頑張っても、私は彼の心に触れられる距離には行けないのだとはっきりさせられて、得も言われぬ絶望感に打ちひしがれる。

 それもこれも、知らず知らずのうちに淡い期待を抱いていた自分のせい。一緒に過ごす時間が増えたのを勘違いした自分の責任。

 堪らず両手で顔を覆い、きつく瞼を閉じる。
 ふいに、以前聞いた結城さんの言葉が脳裏に蘇った。

『自分の時間がなにより大切だったり、仕事が充実してればそれで満たされたり
結婚に縛られるのは……って人は一定数いますよ』

 まったくその通り。

 彼にとって、もっとも重要なのは仕事と自分の時間。それを脅かされる事態になるほどの緊急時に、私との結婚を切り札にしているだけ。

 引き出しから婚姻届を拾い上げる。文くんの文字を目に映し、下唇を噛んだ。

 これを実際に必要としているのは……そうなれたらと浅はかな想いを抱いている私だけだ。
 彼は本当に〝私のため〟だけにこれを託した。

 どうして僅かでも望みを持ってしまったの。
 なぜ、彼にもっと近付ける可能性があるかもだなんて自惚れてしまったの。

 これまで通り、会うのは家族ぐるみの付き合いのみにして、距離を保っていたらこんなふうに貪欲になったりしなかったじゃない。

 私が一瞬でも欲に負けて、『思い出として』でもいいから一緒にいたいだなんて思ってしまったから。

 彼との距離を縮めることが、こんなにも苦しい結果を招くなんて。
 あの時、私はまったく考えもしなかった。知らなかった。

 一度近付いてしまえばもっと彼を知りたくなり、同時に離れがたくなるということを――。
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