小さな願いのセレナーデ
「楽団は?なんで辞めたんだ?」
「……事情があって」
「今は?先生なのか?何で?」
「大学の恩師に誘われたの。大学直属の音楽教室で教えてるの」
「だからどうして……」
「社長、そろそろお時間です」

男性の声がして振り向くと、さっき彼と一緒に連れ立っていた男性が立っていた。彼の部下だろう。

「……仕方ない」
彼は内ポケットに手を入れて、名刺を取り出した。

「今夜食事に誘うから、連絡が欲しい」
一瞬どうしようが迷うが、彼は無理矢理私の手の中に押し込んだ
顔を近づけて、耳元で「待ってる」と。そう呟いて、廊下の向こうに消えていった。


(行けるわけ、無いじゃないの……)
囁いた甘い声は、ウィーンに置いてきた思い出のままの声。
名刺をぐちゃぐちゃに握りしめると──今度こそ、涙が頬をつたっていくのがわかった。


だって、夜に食事へ…なんて行けるはずがない。
名刺は駅のゴミ箱に投げ捨てて、電車を降りると駆け足である所に向かった。


「おかえりなさい!」
そう明るい声と共に──私に向かってくる、一つの小さな影。

「ママ!」
「碧維、いい子にしてた?」

私は碧維をぎゅっと抱き締める。
碧維は一歳十ヶ月のやんちゃな男の子。勿論私が産んだ子供だ。逆算すると、あのウィーンで身籠った計算になる。

──心当たりは、一人だけ。
もちろん彼、昂志さん以外に心当たりはない。
だけど、彼に知らせる気はない。


終わらせたのは、私の方。
だから彼は、一生碧維の存在は知らなくていい。そう思っている。
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