腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
1.月下の出会い
煌々と照らす満月の中、人でごった返す入場列に並ぶ。
「あ、すいません」
誰かと肩がぶつかってすぐに私の順番が来た。ポケットを探ると──あるべきはずのチケットが……ない。
「ない!?」
係員さんが驚いたようにチケットをもぎる手を止めた。
「チケット、ないんですか?」
「ウソ……違うところに入れたのかな」
「どうぞ、こちらへ」
係員さんが代わりに人を呼ぶと、パニックに陥る私の袖を引く。列の脇へ避けると、改めてあちこちを探った。ポケットをひっくり返しても、チケットは見当たらない。他のポケットやバッグの中、財布やポーチの中まで見てみたけど影も形もなかった。

「ど、どうして」
「確かにお持ちになったんですよね」
「そのはずです」
どうして?忘れた?そんなまさか。何度も確認したのにさすがにありえない。
「なんでこんなことに……あぁ、財布もない!」
チケットを入れたのとは反対のポケットに入れていた財布もなくなっている。全身からサーッと血の気が引いていった。だってあのお財布は絶対無くしちゃいけないものなのに。お金がなくなるのも困るけど、何せ、あのお財布は……!

「お心当たりはないんですか?」
呆然としていた私は、係員さんの言葉でハッと我に帰った。
「心当たり……」
ここにくるまでの行動を、一つ一つ振り返ってみる。シャトルバスは送迎無料だったけど、降りるときに精算がいるのか気になって一度お財布を確認していた。
「バスの中では確かにありました」
「なくなったのは、境内に入ってからということになりますね」

「あ!そういえば──」
一つの光景が脳裏に閃く。
「列に並ぶときに人とぶつかったんです」
小さく会釈したように見えたのは、顔を隠していたんじゃないだろうか。
「あの時、盗られた?」
ため息が漏れて、係員さんが言いづらそうに唇を何度か惑わせる。

「実は……こちらの薪歌舞伎は指定席ではないせいか、スリが出たり、付近で転売されてしまったりすることがあるようなんですよ」
「そんなぁ」
「注意喚起の看板は出しているのですが……申し訳ありません」
「他に空いているお席はないんですか」
あったところでお財布もないのに、つい、聞いてしまった。
「ご覧の通り、本日は立ち見までいっぱいでして。お持ちだったはずのチケットも、転売されたら空席にならないでしょうから」
丁寧に頭を下げてくれる係員さんから、申し訳ないという気持ちが伝わってくる。それでも、どうしても引き下がる気になれない。

「お願いします。左右之助を見るためだけに来たんです」
松川左右之助は人間国宝である左右十郎の孫で、正真正銘の御曹司だ。抜群のルックスと実力で、同じく若手御曹司の志村桜枝(しむらおうし)と並んで人気が高い。テレビにはあまり出演しないけれど、舞台やミュージカルにも引っ張りだこ。最近はずっと彼のファンで、薪歌舞伎もどうしても見たい公演の一つだった。自力ではあっさり落選したんだけど、偶然、いただき物のチケットが手に入ったのだ。

「そう言われましても」
騒ぎが大きくなって、周囲の人たちがこちらに注目しているのが分かる。自分でも諦めが悪いのは分かってる。でも──
一歩後ずさると、大きく息を吸い込んだ。
「なに、判官殿に似たる強力めは。一期(いちご)の思い出な。腹立ちや、日高くは能登の国まで越さうずるわと思いおるに、わずかな笈(おい)ひとつ背負うて、後へ下ればこそ人も怪しむれ」
「お客様……?」
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