甘やかし婚   ~失恋当日、極上御曹司に求愛されました~
「――沙也、俺の名前を呼んで」


甘く誘惑するような声が耳に響く。


「……急には、呼べません」


「夫になるのに?」


ぐ、と返答に窮する。


「沙也」


色香の混じった声で名前を呼ばれ、鼓動が早いリズムを刻む。


「……か、郁、さん」


「もう一回」


「郁、さん」


名前を口にした途端、胸の奥が驚くほど熱くなり、体中にじわじわと熱が広がっていく。


「……“さん”は不要だが、今は譲歩する」


眉尻を下げた彼がそう言って、こめかみに唇で触れる。

ピリと痺れにも似た感覚に鼓動が跳ねる。


「これからはずっとそう呼ぶように。間違えたら本気でキスするぞ」


妖艶な眼差しと甘い命令に身じろぎすらできない。

熱くなる頬を誤魔化すかのように、早口で話題を変えようと試みる。


「仕事の話をせずに戻られて構わないのですか?」


「ああ、提案書類にはすでに目を通してある。今後の取引を楽しみにしているよ」


スルリと私の髪を梳く指先が優しくて、胸が詰まる。

勤務先に婚約者宣言までして退路を断ち、甘い言葉と視線で私を翻弄する。

この人の本心は一体どこにあるのだろう。

今日の一件で、私は上層部に彼の婚約者と認識されたはずだ。

勝手な振る舞いに困惑していたのに、完全に気分がそがれてしまう。


「もう俺から逃げるなよ」


吐息が触れるほどの近い距離でフッと口元を緩めた彼に、思わずうなずきそうになる。
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