秘夜に愛を刻んだエリート御曹司はママとベビーを手放さない
 美しい志弦の瞳が清香を射貫く。
「忘れろ。俺と君は今日が初対面だ。いいな」
 有無を言わせぬ口調で、彼は言い切る。
 喉にぐっと苦いものが込みあげる。
(忘れる。なにもなかったことに……)
 この期に及んで、それを拒みたいと思っている自分に清香はあきれる。

「それと……」
 志弦の声は凍りつくように冷ややかだ。
「大河内家には嫁いでくるな。今すぐほかに恋人でも作って、さっさと結婚しろ」
 弟の妻として失格。彼はそう言いたいのだろう。
 そのとおりなので、なにも言い返せない。下唇をかみ、黙るしかなかった。
「話は以上」
 吐き捨てるように言って、彼は伝票をつかんで席を立つ。

 革靴が鳴らすコツコツという無慈悲な音が遠ざかっていくのを、清香は背中で聞いていた。
 振り袖の着付けと髪のセットにかけた時間は一時間以上。肝心のお披露目時間はその十分の一にも満たない時間で終わってしまった。
「ふふっ」
 ほんのりと紅をさした唇から、乾いた笑いがこぼれる。目尻にじわりと涙がにじんだ。

(やっぱり、そうだよね)
 憧れの相手が縁談相手だったなんて、物語のヒロインみたいな展開は清香には訪れない。だが、皮肉なことに、その事実はすんなりと腹に落ちる。
 彼の姿を目にしたその瞬間ばかりは、淡い期待に胸を弾ませてしまったものの……清香の人生はこれまでもずっとそうだった。決して不幸ではないけれど、スポットライトの当たるヒロイン役は回ってこない。
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