薄幸ノ人妻ハ妖シキ鬼ノ愛ヲ知ル
 鬼頭様にもう一度だけでもお会いして、どうか勘違いなさらないで、夫の仕事のためにあなたと寝た訳じゃないとお伝えしたかった。けれど、それ以来鬼頭様と出会うことはなかった。鬼頭様にお会いできるかもと願って、幾度か教会の炊き出しの手伝いにも行ってみたけれど、そこにも姿を現さない。司祭や尼の話では、最近見なくなってしまったらしい。

 季節は冬に向かって一気に進み、底冷えがひどくなってきた。教会からの帰り道は肩掛けだけでは身が縮こまってしまうほど。私はなるべく急ぎ足で進む。街中や教会では、近々大陸の大きな国と戦争を起こすのではという話でもちきりだった。まるで祭りの前のみたいな高揚感が街を包んでいるけれど、私の胸は不安でいっぱいだった。

 どうやら戦争が始まるという噂は本当らしく、最近は旦那様も仕事で忙しく、帰りが遅い。武器の大量生産が始まり、最近買い取った繊維工場では軍服を作っているらしい。準備が着々と進んでいて、あとはいつ火をつけるか……戦争までは時間の問題みたいだった。旦那様が仕事ばかりになってしまい、ウメさんは最近常に「つまらない」と言っては遊びに歩いていた。私は奉仕活動に出る以外は、部屋に引きこもるばかりだった。たまに、実家から手紙が届く。そこには「子どもはまだか」としか書かれていなくて、またそれが私を憂鬱にさせていた。

***

 ある夕方、旦那様の使いが屋敷に現れた。女中が話を聞いて、慌てたように私の元にやってくる。

「旦那様が書斎に重要な書類を忘れてしまい、早く届けて欲しいと連絡がありまして……私が書斎に入ってもよろしいでしょうか?」
「旦那様が持ってきて欲しいと言っているのでしょう? 問題ないわ、私も探すのを手伝います」
「ありがとうございます、奥様」

 旦那様が忘れていった書類は、机と棚の間にすとんと落ちていた。女中は埃を払い「これで一安心ですね」とほっと胸を撫でおろしていた。私が散らかしてしまった机の上を整えていると、女中は「さっそく旦那様のところに行かないと」と忙しない様子で言った。

「どこに届けるのかしら? 会社?」
「いいえ。帝国軍の本部にと……」

 私の頭に雷に打たれたような衝撃があった。体がわずかに震える、それが女中にバレないように「私が行くわ」と早口で言い切る。女中は「でも奥様に行っていただくわけには」とか「大丈夫ですから」と言っていたけれど、私は奪うように書類の入った封筒を受け取り、引き留めようとする女中を振り切って屋敷を出た。帝国軍の本部に行けば、もしかしたら――そんな期待が胸いっぱいに膨らんでいく。早足だったのが気づけば駆け足になっていて、私は冷たい風の中を恋しさ一心で駆け抜けていった。

 本部の門番に華村の使いであることを告げると、すぐに通された。話が通っていたらしい。走っていたせいで胸が苦しくて、私は肩で呼吸しながら、旦那様を探す。会議室の近くにある控室にいるらしく、私が扉をコンコンと叩くと、焦った様子ですぐに扉が開いた。

「どうしてお前が?」
「じょ、女中が忙しそうだったから……代わりで私が参りました……」

 たじたじと懸命に考えた嘘をつく、旦那様は疑わなかった様子だった。私の手から書類を奪い、不快そうに鼻を鳴らし、私を蔑む様に見下しながらこう言い放った。

「でしゃばりめ。分をわきまえろ」
「……申し訳ございません」

 私が深く頭を下げる。旦那様はその私に目もくれず音を立てて扉を閉めた。――これでいい。私の目的は、こんな事じゃない。鬼頭様に会って、お話をしたい。本部にいるだろうか? キョロキョロと辺りを見渡した時、再び扉が開いた。

「いつまでいるつもりだ? 早く屋敷に戻れ」

 でも、と言って夫に歯向かうことは許されない。私はその言葉に素直に従うほかなく、肩を落としながら門を出た。行きとは異なる、とぼとぼとした足取りで屋敷に戻る。どうすれば鬼頭様に出会えるのか……頭の中はそのことだけでいっぱいだった。だから、路地から私に向かって伸びてくる腕に気づかなかった。

「……ひっ!」

 力強く腕を引き、私の体ごと引き寄せてくる影。叫び声をあげようとしても大きな手のひらで口元を覆われてしまい、それも敵わない。振り払おうとしても体が強張ってしまって上手く動かすことができなかった。助けて、殺される――そう考えた瞬間、覚えのある温かさに体が包まれていった。私はハッと顔をあげる。そこには、会いたくて仕方がなかった人がいた。
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