恋、煩う。



「谷田部、少しいいか?」

入社した頃からお世話になっている部長に声を掛けられたのは、紅葉の季節だった。
どうやら立ち話では済まない話のようで、珍しいなと思いつつ背広姿を追いかける。
そして応接室に入った部長はシャッターを閉じ、緊張で俄に表情を固くする私に、口元を緩めた。

「何、悪い話じゃないよ。楽にしなさい」
「はい……」
「単刀直入に言うと、君に昇進の話が来ている」
「え、」

前置きもなく告げられた言葉に、こぼれ落ちそうなほど目を見開く。
まだこの役職に就いてからそこまで長いわけでも無く、それが昇格ではなく昇進。素直に喜んでいいのかすら分からず、思考が停止した。

「まあ、驚くのも無理はないな。いやしかし、君は実際良くやってくれてるよ」
「いえ、そんな……」
「……九州の方に、第二本社を建築中なのは知ってるだろう」
「はい。東日本と西日本で担当分けをして、円滑な経営を行うため、でしたよね」

そうだ。と部長は頷く。

「それの竣工が来年の春でな。そこで、この本社からも幾らか人を送ることになっている」
「……」
「君にはそこで、マーケティング部の部長に就いて、企画の立ち上げに携わって欲しい」

なるほど、わかりました。そうすんなり飲み込む人は、どれくらい居たのだろう。
突然告げられた転勤辞令に、すぐには反応できなかった。
思わず口を閉ざしてしまう私を暫く見ていた部長は、やがてぽつりぽつりと続ける。

「今の部署とは仕事が多少異なるが、君にとって悪い話ではないと思う。キャリアアップに繋がることは間違いない。まあ、君は家庭を持ってるからそこは少し……」

そこで、部長は言葉を止める。
家庭なんか、泰明のことなんか、どうでもいい。
そうじゃなくて、私が素直に頷けない理由は──。

「……松崎くんか?」

不意に、脳裏に思い浮かべていた顔と耳に流れ込んできた言葉がリンクし、我に返る。

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