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(2)

 16時、5分前。千真は、動悸が激しくなっているのを感じていた。
 トイレに立つときに、わざわざ許可を取る必要はない。だから、誰かが席をはずしていても、特に気にされることもないのだが、今日ばかりは誰かに気に止めてもらいたい気持ちでいっぱいだった。

 重たい腰を持ち上げて立ち上がると、千真は憂鬱な気持ちでトイレへ向かう。

「お、時間どーりじゃん」

「……お疲れさまです」

 どうしたって、千真にとっては職場の先輩には違いない。
 千真は、先にトイレで待っていた冴子と友美に頭を下げた。

「ねぇねぇ、昨日も、大狼さんの病院に付き添ったんでしょ? なんで? なんで大狼さんの病院に付き添ってるの?」

「それは、だから……、大狼さんに怪我をさせたのが、私だから……」

「だからぁ。怪我をさせたのはあんたかもしれないけど、病院にまで付き添う必要、なくない?」

「――…」

 冴子の手が、するりと千真の服の中に入ってきて、爪を立てる。千真は、痛みを我慢するために、ぐっと拳を握った。

「ちゃんと断んなよー? 忙しいから、ほかの人にお願いしますー、とかって言ってさー」

「そうそう。開発の丸野さんとか、営業の柳原さんとかーって言ってもいいしー」

「……次からは、そうします」

 友美の手も服の中に入ってきて、冴子に加勢する。脇腹から腹部、それから背中にまで手を回されて、もうどこが痛みを訴えてきているのかさえ判らない。
 それでも千真は、下を向いて必死に耐えるしかなかった。

「そういえば、爪を切るように言われたんだけど、あんた、なんか言ったー?」

「……っ!? い、言ってない、ですっ」

 それには強く反応し、千真は首を振る。確かに、爪で、という話はしたが、でもふたりの名前は一切出していない。
 経理部でもその旨の通達はあったが、理由はキーボードを叩くときの音が気になるからというものだった。決して、千真の言葉に左右されたからではない、と思いたい。

「なら、いいんだけど、さ」

「……!!」

 ぐ、と深く、爪が食い込んで、一瞬、呼吸が止まる。

「大狼さんの迷惑とか? ちょっと、考えてみたほうがいいと思うのよねー」

「そうそう。あんたみたいなのがちょろちょろしてると、いつか、踏まれちゃうよ?」

「蟻みたいに?」

「ちっちゃいからねー」

 くすくすと笑うふたりの声が、いやに耳の奥で響いて、吐き気がする。
 早く時間が過ぎてくれればいいのに、とそれだけを願って、千真は唇を噛んだ。
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