禁断×契約×偽装×策略
第一章 背徳行為
(これから……どうしたらいいのだろう)

 僧侶の経が低く響いているが、遠山(とうやま)雪乃(ゆきの)の耳には入っていなかった。手を合わせるわけでもなく、ぼんやりと立ち尽くしている。だが、ふと我に返ったように視線を彷徨わせ、最後に目の前の棺へ向けた。

(お母さん)

 在りし日の母の笑顔が脳裏に浮かぶと同時に、ぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちた。

(自分がこんなに弱い人間だとは思わなかった)

 心細くて仕方がない。怖いわけでもないのに手が、体が、震える。

 雪乃は母の綾子(あやこ)と二人暮らしだった。月に一、二度訪れる男がいて、綾子はその男を『いとこ』と紹介し、その男も『ママのいとこだ』と言った。それゆえ、幼い頃は信じていた。

 男の名前は実康(さねやす)といった。母より年上なのはわかったけれど、実際に何歳なのかは知らない。

 体の弱い綾子を親戚が助けてくれていて、様子を見に来る役を担っているのが『いとこ』である実康なのだと思っていた。雪乃は彼を、幼い頃は『実康おじちゃん』、中学生くらいからは『実康おじさん』と呼んでいた。

 しかしながら小学校も高学年くらいになると、ネガティブな情報や事情というものが理解できるようになってくる。雪乃はいつしか、誰に言われたわけでもなく、『いとこ』の正体に気づくようになっていた。とはいえ、けっしてそのことを口にはしなかった。子どもながらに言ってはいけないことだと感じたし、なにより実康が訪れた時の母の幸せそうな姿を見て、壊したくないと思ったからだ。

 この葬儀の手配をしてくれたのも実康だ。彼は惜しみない援助をしてくれる。金も人も、すべて手を回してくれる。だが今日も含め、イベントなどに訪れることはなかった。

 そう思うと、実康の家庭の状況が想像できる。週末や世間のイベントは、家族と過ごしているのだろう。

 本当の妻と子ども、と。

 綾子は働きに行くこともできなかったので、ただただ『いとこ』と称するこの実康に囲われていたのだ。誰と交流するわけでもなく、与えられたマンションの一角でひっそり暮らし、実康が訪れるのをおとなしく待っていたのだ。

 そして雪乃もまた、実康の金で育った。このマンションも、日々の生活も、そして学校も。今通っている大学も、綾子の名を通して実康が学費を出してくれている。

 だからといって嫌悪を抱いたことは一度もない。むしろその逆だ。綾子はいつも物悲しそうな顔をしているのに、実康が来ると朗らかに笑うので、雪乃もうれしくて、彼が来るのを待ち望んでいた。

 住んでいるマンションは二度ほど変えたものの、どこも海が見える高級高層マンションだ。実康の身なりも、いかがわしい雰囲気は一切なく、逆に上品さを感じる。雪乃は大きな会社を経営する金持ちなのだろうと想像していた。

(とっても感謝している。私一人じゃなにもできなかったから)

 やがて経が終わり、僧侶が深く礼をしてゆっくりと一、二歩下がった。

「失礼いたします。それでは、お時間ですので」
「はい。お願いします」

 斎場のスタッフの言葉に雪乃はうなずき、数珠をかけた手を合わせた。ガタンと音がして棺を載せた台が動く。その時、後方から足音が聞こえてきた。

「すみません、遠山さんの、待ってくださいっ」

 若い男の声と一緒に、はあはあという荒い息がこだまする。雪乃は振り返らずともその声の主が誰かを理解した。じわりと熱いものが込み上げてくる。

「遅くなってしまって。手だけ」

 スタッフがうなずくのを見たのか、それとも見ずにか、声の主は棺の横に立ち、目を閉じて手を合わせた。

貴哉(たかや)さん……来てくれた!)

 雪乃は広い背中をじっと見つめた。
 間もなく火葬炉が開いて、スタッフが台車を動かした。収納が終わると扉が閉じられる。その一連の作業を雪乃はじっと見つめていた。

「一時間程度いただきます。お部屋でお待ちください」
「ありがとうございます。お願いします」
「こちらへ」

 別のスタッフがそっと声をかけてくれる。二人はその案内に従い、休憩室にやってきた。部屋には茶や茶請けが置いてある。雪乃はすぐに二人分の茶をいれた。

「貴哉さん、どうぞ」
「ありがとう」
「こっちこそ。来てくれてありがとう」
「いや、もっと早く来たかった。ごめん、こんなに遅くなって。心細かっただろう?」

 図星だ。だが、そうだと言う気はないし、心配させたくない。

「大丈夫よ。ぜんぜん平気。本当に、来てくれただけでうれしいから」

 雪乃は貴哉の整った精悍な顔を眩しそうに見つめた。

 正式に紹介されたわけではないので苗字は知らない。実康が『貴哉』と呼ぶので覚えたのだ。彼は実康の部下だと思う。初めて会ったのは中学を卒業した春だったが、その時、貴哉が丁寧語で話していたからだ。

 それに容姿が似ていない。実康はやや太めで、貫禄があるがそれほど背は高くない。一七〇センチ前後だろうか。対して貴哉は長身だった。一八〇センチくらいだろうか。スマートで、顔も頬から顎にかけてシャープで、目元も涼やかだ。

 貴哉は一人で訪れる時も、きちっとしたスーツでやってくるので、おそらく実康に命じられてのことだろうし、仕事で訪れた上司の身内の家には緊張感をもって対応しているのだと察する。ただ、最近、雪乃との二人だけの時は、堅苦しい言葉遣いはしなくなったのだが。

 雪乃は貴哉の顔を眺めながら、三人で過ごした数少ない日々を思い起こした。

 彼は男手が欲しい時や、雪乃の誕生日などに訪問してくれ、手助けしてくれたり、持参したケーキで祝ってくれたりもした。また高校や大学などの入学式、卒業式などにも来てくれた。雪乃にとって貴哉は恩人であり、初恋の人であった。

 これからどうすれば――そうは思うが、結局は『母のいとこ』に養われ、貴哉が様子を見に来てくれるのだろう。

 考え込む雪乃に斎場のスタッフが声をかけてきた。

「準備が整いましたので、どうぞこちらへ」
「はい」

 返事をする雪乃に、貴哉が寄り添い、二人で待合室を出たのだった。

     ***

 ようやく自宅に戻ってきた。

 3LDKの間取りのマンションは、東京湾を一望できる豊洲に建っている。テラス窓から望む景色は文字通りのパノラマビューで爽快だ。母を喪った雪乃の気持ちとは真逆で、今日は秋晴れで、太陽の日差しが燦々と差し込んでいる。

 真新しい小型の仏壇に遺骨と位牌を置き、二人並んで手を合わせた。そして手を下ろすと、笑っている遺影に視線を向ける。

「ねえ、貴哉さん、教えてほしいことがあるの」
「ん?」
「お母さんの『いとこ』の実康のおじさん、本当はいとこなんかじゃなくて、私の父なんでしょう?」

 貴哉の肩がびくっと震えた。
 貴哉の瞳が揺れるのを視界の端で捉えつつ、視線を落とす。

「言いにくかったら言葉で答えなくていいわ。私の推測は正しいのよね?」
「…………」
「お母さんはもういない。だから真実を知ってもいいと思うの」
「雪乃」

「家庭のある人を想っていた、そうよね? あなたは実康おじさんの部下でしょ? なら、知っているはずだわ。私はただ真実が知りたいだけなの。親類とも交流がなく、お母さんと二人だけの寂しい毎日だったけど、それなりに穏やかで幸せだった。生活の心配もしなくてよかったし、大学にも通わせてもらってる。なによりお母さん自身がすごく幸せそうだったから私は満足よ。でも、もう私は……本当に一人ぼっちになっちゃったから……」

 雪乃の目から涙があふれて流れた。

「だから……せめて、お父さんが近くにいるって、思いたいの。会えなくてもいいから。だからお願い、貴哉さん、教えてっ」

 必死にこらえていたが、もうダメだった。流れ始めた涙は止められなかった。
 寂しかったのだ。
 どれほど元気を装い、家事や勉強に集中して不要なことを考えないようにしても、いつも寂しかった。

 母と二人きり、親戚の誰とも交流のない、家事をするために友達と遊びに行くこともなく、いやそもそも普通じゃない感じにクラスメートたちは近づいてこないので雪乃には友達がいなかった。そんな毎日はただただ寂しかった。他の子たちのように、両親、祖父母、親類、いとこ、身内との交流をしたかった。

「雪乃、すまない」
「どうして……そうだって言ってくれないの? けっして調べたりしないわ。大学を出たら、一人でやっていくから面倒をかけたりもしない。私はただ、お父さんが誰か知りたいだけなの」

 そこまで言って、雪乃は自分が貴哉に抱きしめられていることに気づいた。

「あっ……」

 驚いて顔を上げると、鼻先が当たるくらい近くに貴哉のそれがある。じっと見つめられ、なにか言おうとすると、さらに貴哉は顔を近づけてきた。

 なにをしようとしているのかわからないほど子どもではない。雪乃が貴哉の意図を悟って言葉を失った。

 驚きのあまり、ほんの少し唇が開いている。そこに貴哉が重ねてきた。

「…………ん」

 まさかと思いながらも本当に口づけされ、雪乃は戸惑ったもののすぐに瞼を閉じた。

(貴哉さん……)

 雪乃は両腕を貴哉の背中に回し、力の限りぎゅっと抱きしめた。

 ずっと想っていたのだ。初めて会った時から、ずっと。

 チュッと音がして、雪乃は震えた。耳にこだまする音はあまりに淫猥で、体の奥底から得体のしれないものが這い上がってくる。

「ダ……ん」

 唇から声がこぼれた瞬間、触れる圧が強くなった。まるで否定の言葉を遮り、言わせないためであるかのように。

 再び沈黙が起こり、互いの息遣いと淫靡なリップ音だけが聞こえる。
 貴哉の背中に走っている大きな皺を作っている雪乃の指は、力を入れるあまりわずかに震えていた。

「あ……あ、ん……も、う」

 はあ、と熱っぽい吐息がもれた。
 チュッチュッと立て続けに音がして、離れた。

「貴哉、さん」

 貴哉は相変わらずなにも言わない。ただ熱のこもった強いまなざしを雪乃に向けるだけだ。そして抱きしめる手や腕に力がこもった。

 触れられている場所が、やたらと熱い。

「ごめん」
「貴哉さん?」
「不謹慎だって、わかっている。でも……」

 そう言い、貴哉は顔を逸らして歯を食いしばった。

 なにが言いたいのか、なにをしたいのか、聞かずともわかる。母の葬式の日に、そして仏壇の前で、我慢できずに雪乃を抱きしめてキスをしたことを悔いているのだ。いや、葛藤だ。不謹慎だと言いつつも、この手を離さないのだから。

「あっ」

 ぎゅっと抱き込まれたかと思ったら、うなじにチュッとキスをされた。それがなんとも言い難い感触で、ゾクリと肌が粟立つ。

「貴哉さんっ」

 押し倒されていた。貴哉が馬乗りに覆いかぶさっている。
 目が合った。
 逃げなければ、一瞬そう思い、顔を背けたそこに綾子の笑顔が視界に飛び込んできた。

(お母さん)

 遺影の綾子が笑っている。今にも、気にすることはないから、と言いそうな表情に思えた。

(お母さん、ごめん。この人が好きなの)

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