高天原異聞 ~女神の言伝~

2 願い


 息絶えた妹比売を抱きしめながら、姉比売は泣いた。
 天も落ちよとばかりに嘆いた。
 昨日まで幸せそうに夫の帰りを待っていた妹が、なぜこのように死なねばならなかったのだ。
 幸せそうに背の君を待つ妹比売を見て、ようやく自分も、ここを離れて愛しい方とともに根の堅州国で暮らそうと決めたのに。
 愛する者とともに暮らすこと――それが、自分達の喜びになるとようやく納得できたのに。
 どうして今、自分は妹比売の亡骸を抱いているのだ。
 なぜ、天津神は妹にこのような無惨な死を与えたのだ。
 二人揃って差し出そうと試した言霊を断り、愛しい者を妻に迎えたいと、妹しか要らぬと、そう言ったではないか。
 それほど真摯に、妹比売を愛しんでいたのではないのか。
 だからこそ、言祝ぎの意味も含めて、妹には自分の名を与えたのに。
 咲く花のように愛でられ、幸わいとなるようにと。
 それなのに。
 どうして――!!
 姉比売の嘆きに応えるかのように風が吹き、雨が降り、山が荒れた。
 妹比売が己の命と引き替えに産んだ三柱の御子も、姉比売の嘆きに呼応するように息絶えた妹比売の傍らで泣いている。
 嘆く姉比売の耳に、慌てたように駆けてくる足音が響いた。
 力任せに開かれた扉を見やると、ずぶ濡れの日嗣《ひつぎ》の御子が蒼白な顔で立っていた。

――今さら、何をしに来た? よくも妹を辱めたな……そなたを一途に愛し、待っていた妹に、国津神の子を孕んだと? 何という辱めを!!

 憤る姉比売を見て、日嗣の御子は驚いた――否、その姉比売の美しい髪を結い上げている髪挿しの飾り房を見て驚いた。
 その飾り房は、一房欠けていた。
 では、根の堅州国から来たと言ったあの背の高い、若き国津神の持っていた飾り房は、妻のものではなかったのか。

 確かに、木之花咲耶比売と言ったのに。
 大山津見命の娘だと。
 
 国津神の言った比売が、姉比売のことならば、自分は愚かな言霊で、罪のない妻を傷つけ、殺してしまったことになる。

――無事に産まれた御子は紛れもなくそなたの子。妹の言霊は確かにそれを証立てした。連れて行くがいい。そして、二度とこの地に足を踏み入れるな。天津神を信じた私が愚かだった。

 姉比売は、傍らに置いてあった妹の髪挿しを怒りにまかせて日嗣の御子に投げつけた。
 青ざめて放心している日嗣の御子の左肩に当たり、それはしゃらりと音を立てた。
 わからなかった。
 何故このようなことになってしまったのか。
 自分が過ちを犯したことだけはわかる。
 だが、嫉妬に目が眩み、妻を疑った罰を、このように受けねばならぬのか?
 日嗣の御子は落ちた髪挿しの欠けのない房をぼんやり眺めた。
 それから、姉比売を見つめた。
 そこに、自分が死なせた愛しい妻の面影を探るように。

――呪われよ、天孫の日嗣の御子。我が妹のように、そなたも咲く花のように栄華を極めながらも半ばに儚く散るがいい。

 妻とは違う、ぬばたまのように黒く潤んだ瞳が、憎しみを露わに日嗣の御子を見据え、美しい唇が誓約《うけい》の言霊を口にした。
 それは美しい言祝ぎの言霊ではなく、悪しき呪いの言霊だった。

――我ら山津見の国津神は、そなたを許さぬ。報われずに逝った妹の神霊に懸けて、この命の続く限り未来永劫、そなたを、そなたの血に連なる者を呪い続ける!!




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