ホーリー 第一部
第六話 cross beat


 I was listening
 listening to the rain
 I was hearing
 hearing something else.

 “marquee moon / television”


 「雨の音を聴こうとしたけれど、聞こえてきたのは何かべつの音だった。」
 

 すべてが忘却のかなたに、霧のむこうに、埋もれている。旧紀元の2050年ごろから新紀元に至るまでの間の世界のあらゆる記録が、霧にまみれて、読み取ることができない。今の新紀元になるまでのあいだに旧紀元の歴史がどのくらい積み重ねられたのかも、あまりはっきりとは解明されていない。せいぜい、たぶん百年か二百年ぐらいしか経ってないんじゃないかという、いい加減な憶測があるだけだ。まあ、確かに、ぼくもいろいろと本を読んで調べてみたけれど、それで概ね間違いはないだろう。過去と比べて、地形が大きく変わったという記録もないし、街並みも面影ぐらいなら残っていたりする。少なくとも五百年とか、千年とか、そんなに大きい年数は経っていないと考えるのが妥当だろう。それでも、空白期以降と以前とでは文明のあり方が、そしてなによりも言語の在り方があまりにかけ離れている。いったい、霧に埋もれた歴史の中でなにがあったのだろうか。“魔法工学”はいつから生まれたのか、“魔石”はどこからきたのか、それに言語は如何にしてひとつに統一されたのか。文明に関しては、空白期以前の“電気”が“魔法”に、“燃料”が“魔石”や“魔粒子”に置き換えられただけで、実のところ本質的にはさほど変わっていないとも言える。けっきょく化石燃料というものが底を突きかけていた頃合に、うまいぐあいに新しいエネルギーの仕組みを見つけることができたのだろう、と推測することができる。だからそれはそれとしても、言語の問題に関してはあまりに釈然としない。せいぜい百年だか二百年だかのあいだに、それまで四千だか五千だか存在すると言われていた言語が、たったひとつの言語に収束するなんて考えられるだろうか。旧紀元やそれ以前の長い歴史を紐解いてみても、そういった事例は一切見ることができない。空白期以前のあらゆる言語で書かれた本を読んでみたところで、空白期以前のことがより具体的にわかるというだけで、空白期に何があったのかはまったく推して量ることもできないらしい。おそらく、それまでの常識からよっぽど逸脱した何かが起きたのだろうというぐらいにしか。けっきょく、空白期に書かれた、空白期そのものに関する記録を霧の中から引きずり出さなければいけないのだろう。大切なことも、じぶんがなんなのかも、忘れて眠ってしまった世界を、誰かがひっぱたいて起こしてやらなければいけないのだろう。そしたらまた、泡がパチンと弾けるように、世界は“現実”を取り戻すんじゃないだろうか。けして簡単には幸せになんかなれなくっても。少なくとも、こんなくだらない“今”からは脱け出せるんじゃないか。

 太陽を待ちながら、そんなことを考えていた。

昨晩はいつも働いている店で、気になる情報をいくつか聞いた。時間が、世界が、ぼくのまえで動き出しているように錯覚する。きっと今この町に置き始めている変化は、すでに遠くで近くで、何度となく繰り返されてきたことに過ぎないってのに。時間が、残酷な末路へぼくらを連れてこうとしてる。手遅れになるまえに、ぼくらは尻尾を巻いて逃げなきゃいけない。それなのに、性懲りもなく、大人たちは鈍感で、微塵も危機感を抱かない。こどもたちがなにを云っても鼻であしらう。そのくせ、じぶんのガキのことだけは本気で心配しやがる。少なくとも、そんな風を装っている。今起きてる異変の切実さを、おぞましさを、まるで考えようともしないくせに。ぼくはいい加減でロクでもねえクソッ垂れだけど、今身近に起きている異変を、その経験を、絶対に無駄にしない。あのトカゲのおっさんだって、世界の秘密を知ることはぼくの仕事だと言っていたのだ。べつにあいつに言われなくてもぼくのやることは変わらないけれどね。

太陽が昇って、夜の帳がグラデーションになりながら、静かに天に浮かび上がって消えていく。朝がくる。世界が蜜柑色に染まるあえかな朝が。あらゆるものがしんみりとした情感と、仄かな暖かさのなかに目覚めを迎える朝が。襤褸アパートの、白塗りの薄い土壁も、窓の向こうに広がる色とりどりの屋根の海も、その上を飛び交う蛾や蝶の羽も、すべてが慕わしいものに想える。素晴らしきこの世界。朝にはいつもそんな言葉が頭に浮かぶ。うつくしくて、涙が出そうになる。それでもきっと町外れではすべてが不吉な霧にぼんやり隠されて、あの仔にとっては夜明けがうつくしいものではなく怖いものなのだということを想うと霧に怒りが込み上げる。かたちのないものへの、行き場のない怒りが頭をもたげる。その上、昨晩に聞いた町の異変の情報は、ぼくをあまりに不安にさせた。もしかしたらあの仔に関するものかもしれない、と考えられる情報すらあった。それに、今まで三日に一度ぐらいは顔をあわせていたのに、ここ二週間ぐらいはまるであの仔を見ていない。ぼくは朝がきたら思い切ってあの仔の家に押し掛けることにした。日曜日とはいえ、いい年をしたおっさんが、朝の早い内からアポなしで実家暮らしの友人を訪ねるのは少し非常識かもしれない。それでも落ち着いて待ってなどいられない。ぼくの精神は短絡的に、暴走しやすくできているのだ。


 ―――――――――


「お~い、おかゆちゃん、こっちビール~」
「あ~、おれ、ウイスキーのロックね」
「は~い!ありがとうございます!」
 ささっと、ウイスキーをロックグラスに目いっぱい注ぎ、生ビールをジョッキに注ぐ。うちの店はウイスキーに指何本とか、チェイサーがどうのとか、そんな品のよろしい店ではないのだ。とりあえずなみなみと注ぐ。もちろんお客さんからの要望には応えるけれど。まあ、だいたいみんな大雑把で、水なんて口もつけないし、とにかくいっぱい入ってる方がよろこんでくれる。
「さいきん来るのがちょっと早くなりましたね」
ぼくは二人組みの魔鉱夫に注文を持っていって、そう話しかける。
「ああ、さいきんちょっと残業が少なくなってな~」
「そうそう、ま、おかげでそのぶんここでゆっくりしていけるってわけ」
「はは、いつも来てますもんね~」
「いやあ、おかゆちゃんのプリティな顔を拝みにね」
「ほんと、よく似合ってるよな~」
 と言いながら、お尻をさすさすと触る。へなっと、少しだけ力がぬける。なんとなく、いつからか、ときどき店に女装してくるようになった。ここのお客さんたちはみんな、それに嫌悪感を持たずに、こんな風に可愛がってくれる。ありがたい限りだ。優しさに、救われる。
「そういや、さいきんあの女の子見てないなあ」
「ああ、あのおかっぱの可愛らしい子なあ。で、あれって、コレ?」
 いつの時代だ?ってくらい古典的な仕草をしながら言う。あの仔のことだ。さいきん、ちょくちょく店まで会いに来てくれていたから。
「いや、あの仔はそうゆうのとはちゃうんです。でも、ほんとどうしちゃったんだろ。さいきん連絡も取れてないんですよね」
「そうなんか・・・」
 ひとりは、すまなさそうに、口ごもってしまう。
「あ、ホラ、あれだよ!きっとあれ!たぶん大丈夫だって!気にすんな!」
 大雑把だ。意味もよくわからない。それでも、その様子が暖かかった。ふたりとも、なんだかいいコンビで。お店に来る人達は、だいたいみんなこんな感じで、心をほっこりさせてくれる。なんだかんだ言って、いい人たちばかりで、働いていて楽しくなる。だからぼくは、そのうれしさを隠すこともせずに、朗らかに、人懐っこい笑顔で応えた。
「はは、あれってなんですか~。大丈夫ですよ。じつはあんまり気にしてないんです。出会ってちょっとしか経ってないし、今はたまたまそういうリズムなのかな~って」
 甘かった。それでも、このときはまだ、確かにこんな風に思っていた。性懲りもなく、迂闊なまでに楽観的に。今にして思えば、もっと夢の中の予兆に注意深く気を回すべきだったのだろう。それに、もっと過去の経験を活かすべきだったのだろう。

「それにしても、おめぇ、いつまでウチにいるつもりだ?」
 出し抜けに、スキンヘッドのいかつい面をしたマスターが、そんなことを云った。
「う~ん、そろそろ職探ししなきゃとは思ってるんですけど、、」
 ぼくは言葉を濁す。あやふやに。だからなんなのかも云わずに、云えずに。
「そうか、なんだったらいつでも魔鉱のいい働き口を紹介してやっからな」
 いつもどおりの言葉。いつもどおりに、ぼくのあたまをおっきい手でぐしゃぐしゃしながら云う。マスターはたぶんぼくの将来のことを本気で心配してくれているのだ。それでも、ぼくの煮え切らない態度の向こうにある何かを、あやふやで頼りない何かを察して、穏やかに見守ってくれているのだと思う。いつだって、手からその微妙な体温が伝わってくる。こんな風に想ってくれる大人が居る、それはとても感謝すべきことで、その好意に応えたいとも思うのだけれど、今まで散々中途半端な熱情にぶら下がってその優しさを無碍にしてきた。うしろめたさで、胸が痛くなる。それでも、今のぼくは違う。この優しさを力に変えて、もっと前に、自分の道を進んでいきたいと想っている。
「はい、とりあえず考えときます」
 それでも、ぼくはいつもどおりの曖昧な返事をした。真っ向から、じぶんの想ってることなんか云えるわけがない。どうせ鼻で笑われるのがオチだ。言い負かされるのも、わかってる。せっかく尊敬しているマスターを、逆恨みすることになんかなりたくない。面倒くさい説教を食らうことよりも、それがなによりも哀しいから。ぼくはいつもどおりのやりとりのままに、この日常の茶番劇を終わらせた。
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