あの仔のおうち
あの仔のおうち
 第一章


 あの仔は地球儀ばかり見てたので病気になった。ちょっとした風邪みたいな症状がしつこくもうふた月以上も続いている。
 ×月×日、あの仔は日曜日の淡い白昼夢の中でスースーと眠っている。割れた窓から射しこんでくる甘い陽射しが部屋の中に小さな陽だまりをつくっている。その小さな陽だまりの中では、破れてずるむけになった畳もところどころ欠け落ちた土壁も、お父さんとお母さんのちょうど歯とおなじくらい黄ばんだ布団もいろんなものがきらきらとやわらかく煌めいている。ときどきあの仔をせきこませる、霧みたいにたくさんの埃でさえもが一粒一粒めいっぱい煌めいてきれいな光のカーテンをつくっている。小さなボロ毛布の中にはいつも通り二羽のうさぎのぬいぐるみが一緒に眠っている。一羽はとても小さくて可愛らしいまんまるい目の白うさぎ。もう一羽は少しだけ大きくって狸みたいな体系のほそ~い目の白うさぎ。あの仔はムニャムニャとよく聞き取れない寝言をうさぎたちに投げかけている。

 小さなうさぎがまだ少し眠たそうにゆっくりと起きあがって、大きなうさぎの顔にスンスンスンスン鼻をこすりつけた。大きなうさぎは小さなうさぎよりももっと眠たそうにムク~りと起きあがった。それからうさぎたちはあの仔の顔をやさしげな表情でそっと見つめてから、スススス・・・スススス・・・ってゆっくり部屋中を歩きはじめた。まるでどんなものかもわからないものを探すみたいに。そこら中にほり散らかされた衣服や雑誌やまんが本の瓦礫の中をキョロキョロ首をふりながら歩いた。
 それでもうさぎたちはなんにもみつけられなくって、今度は押し入れのほうに目をやってみた。押し入れにはいつからかふすまがついてなくって畳の上よりももっとぐちゃぐちゃのジャングルがむき出しになっていた。でも押し入れの上のほうはあんまり高くててんで届きっこなかったし、下のほうは古くてねばっこい埃が森の下草みたいに低く舞っていてとても中に入っていく気になんかなれなかった。うさぎたちはけっきょくなんにもみつけられなかった。
 うさぎたちはヘタ~って、破れた畳にすわり込んで途方にくれてしまった。大きいうさぎと小さなうさぎは互いに毛づくろいをしてなぐさめあっている。すると小さなうさぎが先に何かに気づいたのか、ブーッと小さな鳴き声をあげた。小さなうさぎが鼻で指した方向には、大きなうさぎの体とちょうど同じくらいの大きさのスタンド鏡があった。鏡の中に映る世界がなんだか少し違って見えるような気がした。具体的に何が違うのかそれはよくわからなかったけれど。ともかく何かがおかしく想えてうさぎたちは鏡からますます目が離せなくなった。
 ぴた・・・ぴた・・・ぴた・・・とおそるおそる鏡に近寄るとあの仔の枕もとにある地球儀が得体のしれないまっ黒い気体に包まれていることに気がついた。うさぎたちはハッて息をのんだ。大きいうさぎはどうしよう!どうしよう!といった様子であわてふためきはじめたけれど、小さなうさぎはすぐべつの何かに気がついてまたブーッと小さく鳴いた。ベッドの上で眠るあの仔の小さな胸のあたりにも、おんなじようにうっすらと黒い気体がまとわりついてるのだった。まるで地球儀から毒素をほんの少しだけ移しこまれたみたいに。それを見るとうさぎたちはただもうカーッとなって、鏡にむかって突進してはガシャーンと大きな音を立てて鏡と一緒にぶっ倒れてしまった。鏡の方は割れなかったし幸いあの仔は目を覚まさなかったけれど、うさぎたちのおでこはヒリヒリと赤くはれてしまった。とくに大きいうさぎの方はほんとに真っ赤っかであんまりに痛そうだった。うさぎたちはお互いの赤くはれあがったおでこを見てブフブフ笑いあった。
 うさぎたちはヨタヨタよろめきながら立ち上がると、まだ痛みで目をうるませつつ、鏡をのぞき込んでおでこの傷を確認した。鏡の向こうの世界は少しだけ歪んでいる気がした。そうして鏡に見入っていると今度は自分の目もなんだか気になってならなくなった。向こう側の自分の目に映り込んでいる、こっち側の世界の景色もなんだか少し歪んで見えるのだった。だんだん自分の姿そのものもみにくく想えてきて仕方がなかった。うさぎたちは自分たちが我を忘れすぎていることに気づきビクッとなって、もう一度気持ちを新しくして鏡の向こう側の自分の瞳の中をのぞきこんだ。そしてその瞳に映る景色の中へぴょーんと飛び込んだ。

 ひゅうるりるりりりり・・・・・・



 第二章


 鏡と瞳のくり返しを何回くぐり抜けたんだろうか?うさぎたちは突然ボトーンって畳の上に投げ出されてコロコロころがった。鏡と瞳のくり返しを何回もくぐったのと、コロコロ転がったのとで、うさぎたちはすっかり目が回っていた。なんとか支えあって起きあがったうさぎたちはともかくもあの仔の枕もとに一目散に駆け込んだ。
 うさぎたちはとても心配そうに、スースー眠るあの仔の寝顔とうっすら黒くおおわれた胸のあたりをながめてから、まっ黒にけぶっている地球儀をジッとみつめた。うさぎたちには地球というがい念はまるでわからなかった。うさぎたちはこの部屋であの仔のあったかい眼差しをたっぷり浴びて育った。物心がついてからというものこの貧乏くさい長屋から出たことは一度もなかった。だからうさぎたちにとっての「世界」っていうのは、せいぜいこの部屋とせせこましい台所と、あとまだ入ったことのない洗面所や小さなお風呂、それからたぶんこの街でいちばん汚いってうわさの和式便所だとかだった。それが少なくとも今現在のうさぎたちが想いをめぐらすことのできる目いっぱいの「世界」だった。

 まだ甘い眠りの中にいるあの仔が急にコホコホとせきこみはじめた。うさぎたちはせっかくいい夢をみているのにって想って、よし!こんな埃なんかぜんぶ吸い込んでしまえ!って言って、胸いっぱいに部屋の中の空気を吸い込んだ。うさぎたちのからだは風船みたいにふくらんで、それからゴクンって飲み込んだ。それでも埃はぜんぜん減りやしなかった。あの仔はもうスースー眠っていたけれど、たぶんうさぎたちの行動とはぜんぜん関係ないみたいだった。だってうさぎたちが息を吸い込み始める直前にはもうあの仔のせきは治まってたんだもの。うさぎたちはあんまりつよくあんまりたくさんの悪い空気を一気に吸い込んだので、肺とか胃袋だとかがチクチク傷んだ。

 テレビ台の裏っこからなにか静かなうめき声が聞こえてきた。ううぅ・・・ううぅ・・・うううぅ・・・って。うさぎたちはソロソロと辺りをうかがいながらともかくも声のする方へ向かった。テレビ台は長方形の部屋の長い壁ぎわのまん中あたりに置かれている。その裏っこには壁との間にサッカーボール一個分ぐらいのすき間があって、たくさんのゴミとか忘れ去られた本とか書類だとかがうず高く積みあげられている。よくお父さんがテレビやテレビ台の上にモノをぶしつけに置くから、お父さんがちょっと乱暴したときだとか寝相のあまりよくないお母さんが足をぶつけたときだとかにしょっちゅう落っこちてしまう。ただでさえめんどくさがりなふたりなのに虫の居どころが悪いときや眠っているときに落っことすもんだから、落ちたものがすぐに拾われたためしはまるっきりない。その上お父さんはゴミを入れるためのコンビニやスーパーのレジ袋が運わるく手元にないときは、テレビ台の裏っこに向かってゴミを放り捨てる。安酒のあき缶だとかおつまみの空きぶくろとかを、立ち上がるのもめんどくさいみたいで、いつもすわった状態のまんま乱雑に放り投げる。それはそんなにしょっちゅうあることでもないんだけど、お父さんは「ちりも積もれば山となる」ってことをてんで考えようともしないみたいだ。
 そんな風にしてすっかり掃き溜めみたいになったテレビの裏っこの、ゴミとか本とかの瓦礫の中から声は聞こえていた。ううぅ・・・ううぅ・・・ぼくはこけしだよ・・・もしよかったら・・・ぼくの上に乗っかってる瓦礫を・・・どかしてもらえないかなぁ・・・?って。その声があんまりつらそうで、うさぎたちはもう必死になって瓦礫の山に飛びかかった。大きなうさぎはみじかくてまるっこい手で、小さなうさぎは両手を縫いつけられて生まれてきたので鼻の先で、ともかくズンズン瓦礫に向かってタックルをし続けた。あんまり必死になっていたのでうさぎたちの手や鼻先はすぐボロボロになった。大きなうさぎの手は爪がはげて白い綿がほつれているし、小さなうさぎの鼻先はすり傷だらけになって白い綿がほつれている。けっきょく非力なうさぎたちにはほとんど瓦礫を動かすことはできなかった。それでもこけしのからだはほんのほんの少しだけ楽になったみたいだった。心は少しだけ軽くなったみたいだった。すっかりまるごと瓦礫に埋もれきっていたこけしのからだは、うさぎたちのおかげでそのほんの一部だけだけど外の空気に触れられるようになった。そうしてもう何年もずっと失っていた光を取り戻したこけしの視界には、まっ先にうさぎたちの顔が飛び込んできた。うさぎたちはゼエゼエ肩で息をしていたけれど、大きなうさぎのあんまり細いたれ目と、鼻をすり傷だらけにした小さなうさぎのつぶらでまんまるい瞳はあんまりやさしくって、ぜんぶをほんとにもうぜんぶをただこっけいに想わせてくれた。こけしはウフフフって笑うと同時に目から涙がブワッて浮かんだ。ほんとに変な顔だな~って、泣きながらうれしそうに言った。

 うさぎさん、うさぎさん、ありがとうって言うこけしの澄んだやわらかい声が、どうしょうもなくボロ臭い部屋の中を深く静かに反響した。
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