恋衣 ~呉服屋さんに恋して~
四章:愛恋


 しばらくぼうっとしたまま、翠さんが駆けて行った先を見つめていた。しかし、遠くの方で次に打ち上がる花火のアナウンスが流れ始め、ハッと我に返る。

「……あの、十夜さん」
「はい、なんでしょう」
「翠さんを……」
「追いかけません。僕は、ここにいたい」
「十夜さん……」
「凛子さんが好きだから、ここにいたい」
「……っ、と、十夜さん?」

 好き、と言った。今、十夜さんは薄い唇で私を好きだと言った。
 信じられなくて何度も瞬きをしていると、十夜さんが大きな掌で頬に触れてきた。愛おしむような優しい手つきに、胸がきゅんと締め付けられる。

「僕は、貴女を五年前から好きです」
「えっ!? そ、それはどういうことですか?」

 あまりにも衝撃的な告白に、みっともなく大きな声を出してしまう。
 今まで、またフラれたらどうしようと思い、悩んできたのに。それよりも、五年前にフラれたことはなんだったのか。
 十夜さんは私の頬から手を離すと、少し間を置いて、ゆっくりと話し始めた。

「五年前、僕は普通のサラリーマンをしていました」
「と、十夜さんが、サラリーマンですか?」
「はい、実はそうだったんです。スーツをビシッと着て、食品メーカーで営業をしていました。和装専門学校を出たと言うのに、一般企業ですからね。周りからはいろいろ言われました。……けど、嫌だったんです。親のいいなりになって呉服屋になるのが」

 思いもよらぬ事実に、何も言葉が出てこない。口を開けたまま固まっていると、十夜さんは自嘲気味に笑った。

「子供だったんですよ……今も、ですけど」
「でも、どうして五年前はお店に……?」
「父に、普通の会社へ勤める条件として、土日は店を手伝うように言われました。今考えれば、上手く乗せられたとしか思えませんけど……それでもあの時は、いつか父が僕のことを認めてくれて、後を継がなくてもよくなると思っていたんです」

(それほど、呉服屋が嫌だったのですね……)
 生まれた時から決められた人生。自分にはそんなものがないのでよくわからないけれど、着物を選ぶ時だって、浴衣を選ぶ時だって、選択肢は多い方がいい。それだけはわかる。

「そんな、嫌々手伝いをしている時です、凛子さんが現れたのは」

 十夜さんの表情がフッと和らぐ。

「十九歳の凛子さんは初々しく、僕にはとても眩しかった。緊張しているのもわかりました。可愛らしい人だと思いましたよ」
「……お、お恥ずかしいです」
「一目見た時は、それだけでした。次に着物を選ぶ貴女を見て、とても楽しそうだと思った。宝石を見つめるかのように、キラキラと輝いていました。採寸をする時、貴女は僕との距離に顔が強張っていて、どうしようかと思いました。だけど、出来上がりを想像してか、時折嬉しそうに微笑んでくれた。表情がくるくると変わる貴女に、僕はすっかり魅了されていました」

 十夜さんは五年前の思い出を、一つ一つ言葉にしてくれる。顔から火が出そうなほど恥ずかしいけれど、同時に覚えていてくれたことが嬉しくてたまらない。

「仕立てあがった着物を渡した時……貴女は蕾が綻んだように、華やかな笑顔を見せてくれた。その笑顔で、僕はこの道を進むことに決めたんです」
「私の笑顔で……ですか?」
「自分の仕事で、誰かが喜んでくれる。やりがいを感じた瞬間だった。呉服屋としての楽しみを、凛子さんが教えてくれたんですよ」

 自分はただ、素敵な着物を目の前にして喜んだだけだったのに。
(それでも、十夜さんが呉服屋の道へ進んでくれてよかったです)
 スーツ姿もきっと似合うだろうけれど、やっぱり着物を着ていて欲しい。今の十夜さんはとても魅力的だ。

「でも、そんな風に言ってくれるのに、十夜さんはどうして五年前、私をフッたんですか」

 そのことがあったから、私は気持ちを伝えられなかったのに。思わず拗ねたような口調になってしまう。
 すると、十夜さんは眉根を寄せて、困ったように笑った。

「二十七歳の男が……十九歳の未成年に手を出すなんて。結構な勇気がいるんですよ? ハタチになっても凛子さんはお店に来ないし」
「年齢が問題だったんですか? それなら、そう言ってくれれば……」
「いいえ、年齢も気になりましたが……不安だった、という方が大きいです」

 不安? 私が十夜さんを好きだと告白したのに?
 理解できずに首を傾げると、十夜さんは優しく瞳を細めてくれた。

「若いとどうしても、触れる世界が狭いでしょう。たくさんの人を見て、ただの憧れではなく一人の男として、僕を選んで欲しかった」

 それは、狭い選択肢しか与えられていなかった人だからこそ、言えることかもしれない。

「でも凛子さんは、一切顔を見せなくなった。半分……いえ、ほとんど諦めていました。そうしたらやっと、来てくれた」

 高熱を出した父に感謝。もし、私がこうして十夜さんの元へ行かなければ、この恋は終わっていたのだ。

「それでも、貴女には既に想う人がいるのかもしれない。それに僕を好きとは限らないし、やっぱり憧れとしてなのかもしれない。恥ずかしながら、探ってみたり、アプローチをしてみたりしました」
「全然……わかりませんでした」

 私の目に映る十夜さんはいつも余裕があって、飄々としていたのに。それでいて、いつも私の心をかき乱していった。

「大人なので、気持ちを隠すのは得意なんです……が、貴女の前では、どうしても無理そうだ」

 困ったように眉を垂れる十夜さんが、なんだか可愛らしく見える。

「十夜さんは、子供ですもんね」

 口に手を当て、クスクスと笑うと、十夜さんは参ったように肩を竦める。

「だからこそ、大人になった貴女が必要です」
「本当に、大人になったと思っていますか?」

 五年前と同じ対応をされている気がする。大人だと思ってくれているなら、もう少しそれっぽく接してくれたっていいのに。
 チラリと十夜さんを見ると、唇が艶を孕んで微笑んだ。

「えぇ、大人になったと思っていますよ」

 腕をグッと引かれ、抱き寄せられる。近づいた距離に、私の頬に熱が走った。

「と、十夜さん……っ、近いです」
「大人として……好きな人として、貴女を見た結果ですよ」

 低く囁くように述べられ、心臓がドキリと跳ねた。しかし、このまま流されてはいけない。だって……。

「十夜さん……意地悪な顔をしています」

 からかわれていることくらい気付く。
 見抜いたことを告げると、十夜さんはふふと楽しそうに笑った。

「すみません。凛子さんを大人として見ているのは本当ですが……やはり僕は、貴女の前だと子供になるようだ。抱き締めたくて、たまらない」
「……それは、困りましたね」

 呟いて、十夜さんの胸に頬を寄せると、背中に回った彼の手に力がこもった気がした。
 風が吹き、私達の髪を撫でていく。火薬の匂い、屋台の匂い、人々の喧噪。全てを巻き込んだ風は夏の匂いがした。

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