あの日まではただの可愛い女《ひと》。
昨日も、今日も、明日も。
「おはよう、桜」

 低い美声が振ってきて、思わずパソコンの画面から目を上げて声のほうを桜は見た。
 ニコリと笑った志岐が立っている。

「う…おはようございます」
「ちょっと打ち合わせしたいんだけど、いつだったら空いてる?」
「えと…。スケジュール表どおりなのですが、本日ですと15時くらいからなら。坂野も私も空いております」
「じゃーそれで頼むよ」

 そう言って去り際に『残念、二人きりがよかったな』とか小声で言われて、桜はより一層身を硬くした。
 なんだろ、これ。デレってやつなんだろうか。いやデレられる要素はないはずなのに、とじんわりと冷汗がにじみそうになる。ただでさえ、昨夜というか今朝方まで、睡眠時間が確保されておらず、疲労が溜まっているような気がしているのに、なんだかどしっと、違う種類の疲労が落ちてきた気がした。
 時間を確認して、坂野に打ち合わせのことを伝え、隆の机に向かった。

「隆さん、打ち合わせいいですか?」
「お。桜、いいぞ~」

 書類から顔を上げて、隆が自分の座席横においているパイプ椅子を桜に勧める。個室ではあるが、簡単な打ち合わせのときは隆の机の横でそうやって説明することが多かった。
 あーこういうのが、志岐さん刺激するかもな、桜はそう思って、ちょっとなるべくこれはやらないようにしなければと頭の中にメモった。

「…志岐がオマエに尻尾振ってるな。一体何をした?」

 唇に笑みを作っているが、目が笑っていない状態で問われた。

「イエ。特にというか、昨夜話つけてみただけですが…」
「一人でか?」
「あーまぁそうですけど」

 何を心配してるんだろう、この人?と不安顔で隆を見た。というかこういう時の隆は絶対お説教モードに切り替わる感じだ。

「まったくお前はっ…」

 ゴイン…っと音が頭の中でしたかと思うと、拳骨が頭の上に落ちていた。書類やPCで隠れてて、たぶん死角にはなっているが、部署に人間に見られたらあまりにもかっこ悪い風景だ。

「イタ…っ」
「アキに伝言させたのに、何で一人でやっちゃうんだよっ」
「いやまぁ、隆さんあの日、お説教に来なかったし、志岐さん取り込めたらいいなーって思ってたのかなーと思いまして…」
「いやまぁ、そうだけど。お前はもう、ほんと何でも一人でしやがってっ」

 イラッとしたのか隆は立ち上がって息を整えた。

「…。すまん。八つ当たりだな。お前にそれを期待したのは俺なのにな」
「期待にこたえようって思ったのは私ですよ?」

 そう桜は答えていた。志岐に対して5年前なぜ、隆がああいうことをしたかということが伝わることはないかもしれないが、隆が志岐という人間を惜しんでいるのは事実。
 また派閥というのは、確かにめんどくさい局面のあるが、単純な敵味方というようなものではない。カエデという企業に根付いているものだ。カエデを損ねることは決してしてはならない、そういうことも織り込み済で存在しているものだ。桜の立場としては、志岐に、隆の意図をわかってもらえるのが理想ではあるが、あくまでも隆の意向に沿った形で物事を進めるのが第一であった。

「ま。それでこれからお話しすることは、隆さんもきっとめんどくさいことですが、説明聞いていただけますか?」

 桜はそういってにんまりと笑って、志岐の担当するビジネスとキャリアプランに関して隆に説明を始めた。

 座席に戻ってメールをチェックしていると、アキからメールが入っていた。
 ――ああ。流石に情報が早いなぁ。
 そう思って今夜飲む約束のメールをアキに返してから、ふと思いついてもう一通メールを送った。



「今夜はアンタの奢りだからねっ!」

 ぷんすかいいつつ、七海は酒を注文した。
 ああ。大分怒ってるなぁ…。まぁしょうがないんだけど、と葵は苦笑しつつ好きなだけ飲めばいいと答えた。まぁどうせ、安居酒屋なので高が知れているのもある。
 葵としても、桜との付き合いを七海に尋ねられて嘘をついた自覚もあったので、ここで水に流しておきたかった。

「もーほんと、つまんない嘘つくのほんとやめなよね!」
「いや、あそこで素直に話すとかないだろうが」
「あー?」

 すごい勢いで、から揚げを頬張りながら七海は葵を睨みつけた。
 悪びれもせず嘘を付くということはどういうことかと、葵に何度お説教したことだろう。もう10年近くの付き合いの中で、数え切れないほど七海は葵に説教をしていた。

「で。桜さんは?」
「今日は会社の同僚と飲み会だって言うから、俺は七海と飲んでるから終わったらお互い連絡しましょうって言っといた」
「へー。ふーん。ほぉぉー」
「いやその投げやりトーク何なんだよ?」
「お仲がよろしいようでって思ってっ。結局付き合うことになったの?」
「いや。ソコまでいけてないよ」

 えええええー。とか七海がぶーたれた。

「なんでさー? 葵にしてはなんか遅くない?」
「うーん。あの人究極の恋愛音痴って言うか、恋愛中枢破壊されているというか…」
「下手に好きって言うと逃げられるってこと?」
「まぁそだね」

 葵は少し苦笑をした。その様子に違和感を感じて七海が言い募る。

「なんか、テンション低くない?」
「ソダネ。テンション低いよ」
「なんで? めんどくさくなったの?」

 一応、付き合ってはいないと言葉上では言ってるが、やってることと葵の気持ちの上では付き合ってるようなものだ。なのに、このテンションの低さは非常に七海としては気になった。葵は食らい付いてくる七海に苦笑をした。

「いや。素直に聞いてくるね、七海は」
「まぁ聞かなきゃ相談にも乗れないじゃん」

 まぁネ。そう言って葵は少し遠い目をした。

「七海はオンラインゲーム(DDO)のときの話を知ってるんだろうけど、俺はもうチョイ前の話を知ってたんだ。で、桜さんって初体験のときも無理やりお持ち帰りされたんだって」
「え?」
「俺も気楽な気持ちでお持ち帰りしちゃったからさ。そっからの関係だからちょっと流石の俺も落ち込んでるわけですよ」
「ああー。そういうこと?」
「ソウイウコト」

 でも今までの葵だったら、『お持ち帰りされるほうが悪い』とか『桜さんのほうが持ちかえったんじゃん、本人も言ってるし』とか言いそうだなぁと、七海は思った。

「ふーん。じゃー、桜さんにはもうなんもしないんだ?」
「そんなわけないだろうさ」
「まぁそう来るよね」

 七海は思わず笑った。葵はこれを言うのをためらうような、ただ告白することで後に引かない気持ちを固めるような気配で小さく言った。

「俺って、彼女の人の良さや無自覚を利用しててひどいなって思うけど、桜さんのことは絶対あきらめられないなってことも反面知ってるんだよ」

 桜さんにはこんな男に惚れられたのが運の尽きって思ってもらうことにする、と葵は七海に笑っていった。七海はなんとなく葵のどこかで、覚悟が決まったのかなぁとその顔を見てぼんやりと思った。大人になりきらない…というか男になりきれないやつだと思ってたのにな、とも。

「じゃーどうするの?」
「まぁ、こっちに惚れてもらうまで粘着するよー」
「ぷっ。それって作戦なしってことじゃん」
「いやあの人にフラグとか作戦とか、ぶっちゃけ通用しないし」
「まぁそだね」

 そう言いながら七海は確かに、桜には作戦とか下手に打たないほうがいいのかもと思った。4年以上桜とは、個人的にメールのやり取りや会ったりしているが、その間に話を聞くところ、彼女は気づいていないが、恋愛フラグはいくつか立っているような出来事があったのは確かだ。
 ただ面白いくらい、そのことに桜は気がつかない。逆に何のフラグもそぶりもなかった葵との出来事のほうが脅威だ。フラグとか気にしないで、そのまま気持ちに入り込むようにひたすら押すことが桜にとって正しいのかもしれない。

 だんと、グラスを飲み干して七海は店員を呼び止めた。

「吉祥宝山ロック2つ!」
「え?お前二杯ってなんで?」
「アンタの分だよ」
「は?」
「めでたい名前のお酒だし、桜さんの好きな銘柄でもあるよ」
「で?」
「おばかだけどちょっと大人になった葵クンにエールを送ろうと思ってね」

 は? 俺のおごりで? と葵は思ったが気持ちだけはありがたくいただくことにして、ちょうどきた焼酎のグラスをカチリと合わせて呑み干した。
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