『ホットケーキ』シリーズ続編- 【 蜜 海 】
2.
 呼び止めて、まるで少女のように家まで送り届けて貰う。背の高さが違う大沢がゆっくりと歩調を合わせて歩いてくれる。こんな彼の優しさにいつも甘えている。

 酒屋の前で店じまいをしている中年の男性が、重そうにダンボールを抱えて店内と外を往復していた。大沢の影が長くなって夜の闇の中に溶けていく。立ち止まってその影を目で追っていた湖山は、少し小走りになって大沢に追いついて、酒屋の前で自分の影を確認する。幼い頃、こんな影をよく飽きもせずにみていた。ユラユラと手を振って、まるで自分ではない誰かがそこにいるような気がしたものだ。

 こうして前を歩く大沢の背中や、レフ板を抱える大沢の腕、カメラを持つ大沢の手、ビールを飲み下す太い首筋、苦さに眉を寄せる表情、上手に解した魚を食べる奇麗な歯並びを見せる口元。いつからこんな風に大沢の何もかもが湖山の胸に波を寄せるようになったのだろう。大切な仕事仲間だった大沢を。大切な後輩で、大切な友人だった大沢を。出来るだけたくさん、出来るだけ長く、彼と仕事を一緒に出来たら良い、そう思った。彼と一緒にいる時間が、他の何にも代えがたいと気付いた。胸にわだかまる気持ちを言葉にしてしまえば、いつからから、湖山の胸の中にあるレンズはスッとフォーカスを変えて湖山が思いもしないような景色を切り取りはじめて行った。

 大沢は酔った湖山を送り届けるためになんどもこの町を訪れた事がある。迷う事無く湖山の前を歩いていく後姿が頼もしかった。電車がなくなれば、湖山の部屋で湖山を寝室に寝かせて自分はソファで寝ていくこともあった。でも、今夜は違う。湖山は自分の足で歩いているし、あるいは飲みなおそう!と言って肩を並べて騒いでいる訳でもなかった。今夜は、空気の匂いすら違って感じる。温かい風は時折大きな街道の方から吹いてきて、大沢と湖山を包んでは通り過ぎていく。春が終わり、やがて夏が来る。少し湿気を帯びた風はそれでも爽やかさを失わずに始まったばかりの夜にたゆたっていた。

 マンションの前で大沢は立ち止まり微笑んだ。湖山は目を逸らして「ありがとう」と言って、それに答えて「おやすみなさい」と言いながら後ろ足を引いた大沢を「大沢っ」と急いで呼び止めた。
 「大沢、あの。」
 「うん。」
 「今日、泊まっていかない?明日、休みなんだろ?」

 大沢は湖山を見詰めて少し何かを考えているようだった。それから
 「湖山さん、酔っているの?」
 と、掠れた声で尋ねた。

 酔ってない。でも、酔っていれば大沢はそれを言い訳にして湖山の部屋に泊まれるのだろうか。それでも、酔っているからそんなことを言っているわけではない。今は深い意味を持ち始めたその言葉を、湖山が口にしたのは、それだからこそ何度も口を噤んだ、散々躊躇ったあとの言葉なのだと、大沢は分っているはずだ。
 「酔ってないと、ダメなの?」
 大沢は、今度こそ本当に困った顔をして湖山を見た。

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