◇桜ものがたり◇

柾彦さまの恋


 萌のお伴の帰り道、偶然通りかかった柾彦から、

 車で、家へと送ってもらった笙子(しょうこ)は、

 桐生屋の店先に座っていても、いつも柾彦のことを考えていた。

 柾彦の爽やかな笑顔が目に浮かんで離れなかった。


「笙子、先程から何度も呼んでいるのに返事をしないけれど、

 どうしたのかね」

 桐生弦右衛門(げんえもん)が、笙子の前に立った。


「父上さま、申し訳ございません。何かご用でございますか」

 笙子は、我に帰って弦右衛門を正視する。  


「先程から、その反物にばかり触れているけれど、気に入ったのかね」

 弦右衛門は、笙子がここ一週間ばかり、接客にも身が入らず、

 夢うつつの表情をしているのが気になっていた。


 大人しい性格の笙子ではあったが着物の見立てには定評があった。

 店は、長男の颯一朗(そういちろう)が継ぐ事になっているが、

 着物好きの笙子には、奉公人の倉三郎を婿に取って、

 暖簾を分けてもいいと常々考えていた。


「申し訳ございません、考え事をしておりました」

 笙子は、弦右衛門の厳しい表情に恐縮して、頭を下げて謝る。


「お嬢さま、そちらの反物は、私が棚に戻しましょう」

 すぐに見兼ねた倉三郎が助け舟を出してきた。

「お願いします」

 笙子は、倉三郎へ反物を差し出す。


「考え事があるのならば、今すぐ奥に下がりなさい。

 お客さまに失礼になるからね」

 弦右衛門は、厳しく笙子を諭した。


「はい、父上さま」

 笙子は、涙ぐんで奥へと下がる。

< 159 / 284 >

この作品をシェア

pagetop