りんどう珈琲丸
 正確に言うと今日も貸し切り。でもそれを聞いてわたしはやっぱりマスターはやさしいと思う。そんなの誰にでもできるって思うかもしれないけど、そんなことない。さりげないやさしさとおしつけがましさって、ほんとにちょっとだけしか違わない。だけどそのちょっとは実はずいぶん違う。さりげなくなにかをするのはむずかしいことだと思う。おしつけがましい人はいっぱい知ってるけど、さりげない人はそんなに知らないもの。わたしは思う。いずれにせよ、わたしはマスターのそういうところが好きだ。
 彼はにっこり微笑んで窓際のいちばん奥の席に座る。そうなの。そこがりんどう珈琲の特等席なのとわたしは思う。古い木のテーブルと、緑色の古い1人がけのソファが奥にあって、手前には木でできた古い椅子。大きな窓から光が入ってのびのびした気持ちになれるし、雨の日はなんだか世界の端っこに座っているような気分になれる。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
 お客さんにお水を運ぶのはわたしの仕事だ。
「こんにちは。珈琲をください」
 彼は流暢な日本語で、メニューを見ずにそういう。


「珈琲お願いします」
 カウンターの中のマスターにそう伝えると、わたしはマスターに背を向けて、カウンターの前に立って外を見る。秋の始まり。オレンジ色の太陽が路地に斜めに入り込んで空気の粒子をつかまえ、しましまの光の筋をつくっている。静かな夕方だ。マスターが珈琲を入れ始めると、背中の方からとってもいい匂いがしてくる。わたしはこの瞬間が好きだ。スピーカーから流れている日曜日の午後みたいな女の人の名前はなんだっけ? どうしても思い出せない。お店が終わったらマスターにもう一度聞いてみようと思う。


 珈琲を運ぶと、彼は手紙を書いていた。飾り気のない、色あせた古い便せんに、見たことのない文字で。
「ありがとう」
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