りんどう珈琲丸
 どうしてマスターといるときだけそんな気持ちになるのか、いつも考える。でもわたしはここで半年過ごしたけれど、今だにわからない。マスターは静かな人だと思う。でも、ほんとうのマスターはもっと奥の方にいるように思えることがある。きっと17歳のわたしではまだその奥の方まで行けないんだと思う。それでもマスターの話す言葉や、表情、佇まいの奥にある、その隠された空気がいつもこの店を覆っているのはわかる。もちろんこの店が暗く陰湿な感じがするとか、そういうことではなく、むしろ大きな窓ガラスから入る太陽の光の明るさの分だけ、それが見える、そんな感じだった。私は毎日ここ以外の場所からここに来るからそれがわかる。もちろん最初はそれがなんなのか、わたしにもわからなかった。もっとわたしが大人になったらそれが今よりわかるのか? それもわからない。お客さんにもその正体は多分わからないだろうと思う。その正体どころか、わからない人にはその存在にさえ気づかないし、興味のない人にはそもそもまったく意味のないものなのだろう。きっと世界とはそういうものだと思う。でもわたしはそれの名前を知りたくて探している。


 からんからん。
ドアが開いて誰かが入ってくる。
「こんにちは」
 マスターがいつも通りのあいさつをする。「いらっしゃいませ」じゃなくて「こんにちは」。
 お客さんはこの間も来てくれた外国の人だった。アメリカとかヨーロッッパじゃなくて、多分中東とかアジアのほうの人。背が高くて痩せていて、彫りが深い。マスターが37歳だから、きっと30歳くらいかなと思う。わたしは彼をこのあいだ始まった海沿いの道路工事の現場で見た。お母さんが運転する車の助手席で、わたしは彼がお店で会ったことがある人だと気がついた。片方の車線を通行止めにする工事で、彼は道路の前に立ってやってくる車を停めたり通したりする仕事をしていた。


 入口で立ち止まっている彼のちょっとした心の緊張をほぐすように、マスターが少しだけいたずらっぽく言う。
「お好きな席へどうぞ。貸し切りです。今日」
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