りんどう珈琲丸
第3話
今日もりんどう珈琲はとっても暇だ。学校が終わってわたしがアルバイトにやってきたのが4時で、今が5時。その間にお客さんはひとりも来なかった。わたしはカウンターの椅子に座って、マスターが淹れてくれた珈琲を飲んでいる。マスターはカウンターの中で文庫本を読んでいる。とてもいい天気の1日だった。たくさんの太陽の光がりんどう珈琲の大きな窓から入ってきたこんな日は、時間が経っても店内に日だまりのような暖かな熱を残している。わたしはなんだか眠くなってくる。世界の時計のねじが、少しずつ緩んでいくような午後だ。

 スピーカーから流れているのは、ピアノの曲。マスターは本当にたくさんのレコードを持っている。わたしはなぜかピアノが好きだ。小さい頃から先生にピアノを習っていた。それもけっこう熱心に。でも高校生になって通うのをやめてしまった。それもどうしてだかはわからないのだけど。今、りんどう珈琲で流れている音楽は、心を震わせるような叙情的な歌だった。マスターは本当にたくさんの素敵な音楽を知っている。

「ねえマスター」
「うん?」
 文庫本を読んでいたマスターが視線を上げる。
「この曲いい曲だね」
「ああ」
「ピアノが上手だね。誰が歌ってるの?」
「ビリー・ジョエルっておっさんだ」
「おじさんなの?」
「いや、いまはおっさんだけどこの歌を歌ってたときは若かった。1970年代だ」
「わたしが生まれるずっと前だ。なんて歌?」
「ピアノマン」
「英語だからなに言ってるかわからないけど、とっても切なくて、でもなんだか美しくて、胸が締めつけられるみたい」
「そういう歌だ」
「どんなことを歌ってるの?」
「貸してやるから自分で調べろ」
「うん」
 その歌はなんだか心のいちばん下の方に直接響いてくるような気がする。ピアノっていうのはそういう楽器みたいだ。心の表層的な部分を通り越して、深いところにすとんとなにかを届けてしまうような。わたしはこの人がなにを歌っているのかを知りたいと思った。そして自分もまたピアノを弾いてみたいと思った。高校に入ってからはまだ一度も家のピアノに触っていないから、きっとお母さんは驚くだろうけど。


からんからん。
「やってますか?」
 ドアが開いてひとりの男の人が中を覗き込む。お客さんだ。わたしは慌ててカウンターを立つ。
「どうぞ。やってます」
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