りんどう珈琲丸
 そのとき、りんどう珈琲のドアが開いてマスターが外に出てきた。ドアの看板を裏返して、マスターはひとつ伸びをして冬の夜の空を見上げた。そして路地の入口に立っているわたしに気づく。


「ひい。どうした?」


 マスターが急に現れたので、わたしは動揺する。でもマスターに心配をかけちゃいけない。オレンジ色の光がぼんやりとした膜のようなものでマスターを包んでいる。わたしは路地の入口でマスターには近づかずに、少しだけ大きな声で話しかける。


「…マスター。今日も暇だった?」
「ああ、暇だったよ。12月はみんな忙しいんだな。珈琲飲む暇もないんだ。それよりひい、どうしたんだ?」
「ううん。近くまで来たから、なんとなく」
「そうか。珈琲でも飲んでくか?」
「ううん。今日は帰る。また明日ね」
「ああ。気をつけて帰れ」
「うん。マスター。おやすみ。ばいばい」
「ああ」


 わたしはマスターに手を振ると、背中を向けて自転車に乗って坂道を下る。わたしはマスターがそこにいてくれればいい。願わくばマスターが少しでも明るい気持ちでいてくれれば。そんなふうに思う。海からの夜風がわたしの髪を揺らす。涙がまた一筋だけ頬をつたう。


 クリスマスイブはとっても寒い日だった。土曜日だからわたしのアルバイトは12時のお店のオープンから。天気予報は夕方から雪だと言っていた。雪のクリスマスなんて、今までにあったっけ? わたしはお水を注いだりテーブルを片付けたりしながら、窓の外が気になって仕方なかった。わたしはずっと、美篶さんのことを待っていた。5時になって、6時になっても、美篶さんは現れなかった。冬の日は短い。あたりはどんどん暗くなっていった。


「ねえマスター、この町の人はみんな、クリスマスになにしてるんだろうね」
「さあ。なにしてるんだろうな」
「ねえ、お客さん来ないね。さっきのお客さんが帰ってからもう30分もたったよ」
「いいんじゃないか。クリスマスくらい」
「いつもだって一緒だよ」


 7時になった。窓の外はもう真っ暗で、店内のオレンジの灯りが暖かく感じる。冬の太陽はすぐにいなくなってしまうけれど、お店の中はなにかに護られているように暖かい。気がつくと、空から新聞紙を降らせたような不規則な舞い方で雪が降り始めた。


「ねえマスター、雪!」
「ああ。ほんとに降ってきたな」
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