りんどう珈琲丸
「ううん。それは違うわ。竹岡の駅で柊ちゃんに偶然会って、今こうして話しているのも、ぜんぶ運命だと思うの。わたしはそういう奇跡を信じたい」
「…奇跡?」
「そうよ。奇跡よ」
「ありがとうございます。奇跡ってどういうことかまだわたしにはわからないけど、わたしも信じたいです」
「美篶さん」
「なあに?」
「クリスマスイブに待ってます。りんどう珈琲で」
美篶さんはなにも答えなかった。そのかわりに、寂しそうに笑った。わたしはこんなに寂しい笑顔を見たのは初めてだった。
竹岡の駅まで帰る日曜日の夜の電車は空いていた。君津の駅を過ぎると、わたしの乗った車両にはわたししかいなくなった。窓の外に内房の真っ暗な海が見えてくる。トンネルに入ったときに電車の窓に映ったわたしの顔は、なんだか自分じゃないみたいに見えた。窓ガラスに映ったわたしは、静かに涙を流していた。マスターの恋人の話を聞いてから、ずっと体が宙に浮いたみたいな気分だった。そんな自分じゃないような自分のことを見つめながら、わたしは別れ際に東京駅で見送ってくれた美篶さんの姿を思い出していた。それはわたしの心に貼り付いてしまったみたいだ。わたしは自分が自分であることが、とても悲しかった。この悲しみの正体を言葉にしたいと思うけれど、到底できそうにない。だってこれは今まで味わったどの感情とも違う気持ちだ。
竹岡の駅で降りたのは、わたしだけだった。わたしは自転車置き場から自転車を引っ張りだす。12月の海風はとっても冷たくて、手がかじかむようだ。わたしは自転車に乗らずにそれを押しながら、駅から国道へ続く短い坂道を下る。
わたしは無意識のうちに、りんどう珈琲に向かっていた。国道から細い道を入って坂を上る。そして路地をまがれば、お店が見えてくる。路地を曲がったところで、わたしは足を止める。お店の大きな窓から、暖かいオレンジ色の灯りが漏れている。ちょうど8時を過ぎたところだから、きっとマスターは片付けをしているはずだ。わたしは今すぐ駆け出してそのドアを開けたいと思う。でも体が固まったように、それができない。わたしはしばらく立ち止まってその灯りを見ていた。マスターはカウンターに座ってビールを飲みながら、なにを考えているんだろう。どんな音楽を聴いているのだろう。わたしは白い息を吐きながら、そんなことを考えていた。
「…奇跡?」
「そうよ。奇跡よ」
「ありがとうございます。奇跡ってどういうことかまだわたしにはわからないけど、わたしも信じたいです」
「美篶さん」
「なあに?」
「クリスマスイブに待ってます。りんどう珈琲で」
美篶さんはなにも答えなかった。そのかわりに、寂しそうに笑った。わたしはこんなに寂しい笑顔を見たのは初めてだった。
竹岡の駅まで帰る日曜日の夜の電車は空いていた。君津の駅を過ぎると、わたしの乗った車両にはわたししかいなくなった。窓の外に内房の真っ暗な海が見えてくる。トンネルに入ったときに電車の窓に映ったわたしの顔は、なんだか自分じゃないみたいに見えた。窓ガラスに映ったわたしは、静かに涙を流していた。マスターの恋人の話を聞いてから、ずっと体が宙に浮いたみたいな気分だった。そんな自分じゃないような自分のことを見つめながら、わたしは別れ際に東京駅で見送ってくれた美篶さんの姿を思い出していた。それはわたしの心に貼り付いてしまったみたいだ。わたしは自分が自分であることが、とても悲しかった。この悲しみの正体を言葉にしたいと思うけれど、到底できそうにない。だってこれは今まで味わったどの感情とも違う気持ちだ。
竹岡の駅で降りたのは、わたしだけだった。わたしは自転車置き場から自転車を引っ張りだす。12月の海風はとっても冷たくて、手がかじかむようだ。わたしは自転車に乗らずにそれを押しながら、駅から国道へ続く短い坂道を下る。
わたしは無意識のうちに、りんどう珈琲に向かっていた。国道から細い道を入って坂を上る。そして路地をまがれば、お店が見えてくる。路地を曲がったところで、わたしは足を止める。お店の大きな窓から、暖かいオレンジ色の灯りが漏れている。ちょうど8時を過ぎたところだから、きっとマスターは片付けをしているはずだ。わたしは今すぐ駆け出してそのドアを開けたいと思う。でも体が固まったように、それができない。わたしはしばらく立ち止まってその灯りを見ていた。マスターはカウンターに座ってビールを飲みながら、なにを考えているんだろう。どんな音楽を聴いているのだろう。わたしは白い息を吐きながら、そんなことを考えていた。