りんどう珈琲丸
 わたしはそれだけ言うと、また泣きそうになる。マスターは黙々とパスタを食べている。時間っていうものは、どうしてぜんぜん止まらないで過ぎていくんだろう。わたしはその時間のなかで、どこにも自分の影を残せないような気がして、怖くなる。わたしはマスターに忘れられたくない。この場所からどこにも行きたくない。ここのところわたしは泣いてばかりだ。でも今ここで泣くわけにはいかない。


「なあ、ひい」
「うん?」
「ケーキ食うか」
「うわぁケーキ? どうしたの?」
「今日はクリスマスだからそれっぽいの作ったんだけど、ぜんぜんオーダーがなかった」
「なんだか喜んでいいのかわからなくなってきた」
「珈琲淹れてやるから待ってろ」
「うん」


 マスターはそういうと、カウンターに戻って珈琲を淹れはじめる。

人が心にしまっているものは、結局その人自身にしかわからない。痛みとか、悲しみとか、言葉にできない種類の感情なんて、数えきれないくらいある。いくら言葉を尽くして誰かに話しても、ぜんぶを同じにわかりあうなんて到底無理だ。きっと全部を言葉にしようとするなんて傲慢で、わたしはそれを知らなくちゃならない。マスターが心にしまっている痛みは、きっといつまでたってもマスターにしかわからない痛みなんだ。そのことはとっても辛いけど、きっとそれがルールだ。悲しいけど今のわたしがマスターにしてあげられることは、たぶんひとつもない。

わたしは窓の外を見ながら、そっと涙を流す。雪は世界から音を奪うように、音もなく降り続いている。マスターがターンテーブルに針を落として、ポール・マッカートニーがもういちどクリスマスの歌を歌いだす。お店の中に珈琲のいい匂いがする。クリスマスの夜が、静かに過ぎていく。わたしは目を閉じて祈る。今のわたしには祈ることしかできないけど、今夜は誰かがそれを聞いてくれそうな気がする。


りんどう珈琲 第4話 おわり
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