ホットケーキ続編のさらに続編【玉子焼き】
1.喧嘩
 玉子焼きを作る大沢の眉根はぎゅっと寄っていた。真剣さを物語っている、というよりは、明らかに不機嫌な表情だった。
 「ねえ、怒ってるの?」
 と言わずもがなのことを尋ねると
 「怒ってないよ。」
 と大沢は答えた。
 (嘘ばっかり)
 湖山は気付かないふりでレタスをちぎる。

 朝のニュースが昨晩遅くに起きた田舎町の宝石強盗のニュースを流していた。夏の暑さが人を自棄(やけ)にさせるのだろうか。こんな事件はいつも夏に起きる気がする。トースターに食パンを放り込み、冷ました玉子焼きを切ると、年輪のようにほんのり焦げた茶色が輪を重ねていた。

 いつもなら湖山を気遣って歩く大沢の足が今朝は速い。駅までの道のりをとっとと歩きながら、それでも必ず信号で捕まって湖山が追いついた。
 まだ少しは優しさを湛えた夏の朝の太陽はアスファルトを丁寧に焼いている。大きな交差点の長い信号待ちで、沈黙に耐え切れずに湖山は口を開いた。
 「怒ってるんだろ?」
 「怒ってないって!」
 「なんなの?言いたいことあるならちゃんと言えよ。」
 「なんだよ、何でもないって。怒ってないって言ってんじゃんか。」
 朝からもう何度か繰り返している会話を性懲りもなくまた繰り返す。多分それだけではないのだが、事の起こりは昨夜の言い争いだ。湖山のアシスタントを辞める気はないという大沢と、カメラマンとしての自立を促す湖山が繰り返すお互いを思いやる主張は、どうしてなのか名実ともに恋人となってからこちら喧嘩の火種となるのだった。

 『大沢が好きだよ。できるだけ沢山側にいたい。だけど、折角のチャンスを無駄にして欲しくないんだよ。』
 『チャンスって、何?』
 『カメラマンとして一人前になって欲しい』
 『ねえ、湖山さん、俺ね、カメラマンになんてならなくていいんだって。』
 『大沢…。』
 『言わなかった?カメラマンになるのが夢な訳じゃないんだって。こうしてこの世界に身をおいておく事自体が俺に取っては大事な事なの。湖山さんのアシスタントとして一人前ならそれでいいんだよ。それ以上なんて、なんも無い。』

 それから大沢は黙った。何かを言いかけてやめた唇をきりと結んで湖山を一度だけ強く睨みつけると目を逸らした。
 その夜、背を向けて寝る大沢が本当は眠ってなどいないことに気づいていても、その背中は多分、湖山の言葉も湖山の手の温もりも今は欲しくないと言っているような気がした。天井を見つめていると、大沢の強い目線が何度も何度もそこに浮かんだ。

 こんな時に、これが異性の恋人ならそっと手を握ればすべてが丸く収まるのに、と湖山は思う。朝、通勤に急ぐ人の波の中でも、そっと手を滑らせて手から伝わる何かで「ごめん」と伝えることができたら、きっと大沢はそこまで頑なになんてならないで手を握り返してくれるだろう。「俺こそ、ごめん」と、その大きな手が言うだろう。
 (ただ心配しているだけなんだよ。)
 そっと手を握る事もできない、伸ばしかけた手をまたきゅっと握り締めて、湖山は横断歩道を渡っていく恋人の大きな背中に投げかけた言葉を飲み込んだ。汗をかいた背中のシャツが薄く肌を透かしている。大沢が大きな一歩を踏み出すたびにその小さな薄い肌色の部分が大きくなったり小さくなったりしていた。




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