君に物語を聞かせよう
7.視線
悩めば悩むほど、執筆は行き詰った。

まだ調子に乗っていた頃、官能小説を舐めていた時もあった。
通勤途中のオッサンの暇つぶし程度のシロモノに捉えていて、もっと言えば下司であればあるだけでいいと思っていたのだ。

しかし、そんな簡単なものではない。

気楽な読み物であるならば、つまらなければあっさりとページを読み飛ばされてしまう。惹きつける技量がないと、そこで切られてしまう。
分かるけれど、だからといってどう書いていけばいいのかとなれば話は別だった。

こんなところで躓いていたら、いつになってもめぐるを喜ばせられる話なんて書けない。

必死になって書こうとした。
書けなくて苛立ち、苦悩する俺の前にはいつも美恵が現れて、蔑むように見つめた。


『書けるわけ、ないわ。蓮なんかに』


いつしか、声すら聞こえるようになった。美恵は幾度となく、俺がもう書くことは出来ないと言った。

現実なのか、幻なのか。その境目すら分からなくなってくる。
しかし、そんな俺をいつだって引き戻してくれたのは、めぐるだった。


「めぐる」

「なぁに、蓮?」


真っ直ぐに俺を見つめてくる瞳は、昔からずっと変わらない光がある。

もしかしたら、俺にはこの子が必要かもしれない。
この子が見てくれていると思えば、俺は己が立っている場所をきちんと把握することができた。
支えられているのだ、俺は、めぐるに。
めぐるが俺には必要なのだと、認めざるを得ない。
姿が見えないと、探すようになってしまうのだから、言い訳の余地もない。
必要? それはどういう意味で?


「ねえ、蓮。お散歩いこう。ね?」


背中に手のひらの温もりを感じる。それがひどく心地よい。
分かってるだろう、蓮。俺は、この子のことを……。

己の気持ちを知ってしまうと、美恵が現れることが増えた。


『今度はめぐるちゃんを傷つけるってわけね』

『いいように扱って、苦しめて、次はあの子が死ぬのね』

『あの子を私の代わりにしようとしてるんでしょう? 私みたいな便利な女が欲しい。それだけなのよ』


違う、そうじゃない。
いや、そうなのか? 俺はまた誰かを傷つけようとしてるのか?
そんなことない。俺は決して、めぐるだけは苦しめない。


『めぐるだけは? そうね、私は、どうでもよかったのね』


違う。俺はお前も大事にしてきたつもりだったんだ、美恵。
それが大きな勘違いだったと今は知ってる。
お前には、どんな謝罪の言葉もないくらいに酷いことをしたと、分かってる。


『分かって、どうなるっていうの? 人の本質は変わらない。貴方はきっと、めぐるちゃんも傷つける。苦しめる。泣かせる。貴方は誰も、幸せになんてできないのよ、蓮』


美恵が消えた後はいつも、一文字も紡げなかった。



杯根の家の庭は、ふらつくのにちょうどよい広さだ。
玉砂利を踏みしめて小さな池の周りをそぞろ歩けば、不思議と心が落ち着く。
煙草をくゆらせ、夜空を見上げていると、さっきまで全く機能していなかった脳が少しずつ動き出す。

もう少しだけ、書いてみようか。
あのシーンだけでも、終わらせてみようか。

紫煙を吐きながら、脳内で描く。


と、馴染んだ気配に気付いた俺はそれとなく母屋に視線を流した。
やはり、客間の障子が、ほんのりと赤い。和紙張りのランプの灯りだ。
その灯りの中にいるのは、めぐるだ。

めぐるが、俺を窺っているのだ。

昔から、そうだった。
この家で、俺が行き詰ってしまうと決まって、誰かの視線を感じた。見守るような、無言の視線。
その視線の主がめぐるだと、すぐに気付いた。めぐるが俺を心配して、そっと見つめているのだと。

それは、どうしてだか俺を落ち着かせて、思考をクリアにしてくれた。
ごちゃごちゃになっていたプロットが、言葉が、綺麗に収まるような感覚すら覚えた。


「不思議だな、お前は」


灯りを見ながら独りごちる。
その視線に見つめられると、創造できると自信が湧いてくる。

きっと、小さなころからお前の瞳に宿るものが変わらないからなんだろうな。
つかえつかえ物語を紡ぐ俺を、キラキラと見つめてくれた瞳。その瞳が今も俺を後押ししてくれる。


「その瞳の中にあるのは、何なんだろうな」


こんな俺を見限りもせず、見守ってくれる。その根底になるものは、何なんだ。
もしかして? いや、まさかそんなことがあるはずもないか。


「もう少し、がんばるか」


温かな視線を感じながら、離れに向かって歩き出した。


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